Quantcast
Channel: てつりう美術随想録
Viewing all 342 articles
Browse latest View live

歌声よいつまでも(2)

$
0
0


 アマチュアの音楽団体は、いつも練習場の確保に頭を悩ませる(プロであっても、例外ではないかもしれないが)。テレビ番組のなかで福井ソアーベ児童合唱団が使っていたフロアは、かつての実家の近所であり、何度も買い物に訪れたことのあるショッピングセンターの一室らしかった。ぼくのおぼろげな記憶では、はじめてソアーベの歌声を聴いた俄作りのステージは、そこの駐車場をぶち抜いて設えられたものだったはずだ。

 指揮者を務め、子供たちの指導をするのは、坪口純朗(すみお)さんである。テレビ画面に登場した彼はすでに80歳を迎え、以前にぴょこりとお辞儀していたときにはなかった豊かな白い髭をたくわえており、まるで仙人のような風貌に変じていた。それだけではなく、末期がんに冒された体を車椅子にのせた痛々しい姿でもあった。

 しかし子供たちの前に出ると、病気とは思えないほど腕が高く上がり、声にも力がこもるようだった。奥さんの晴美さんのピアノ伴奏にあわせ、澄んだ歌声が流れる。ウィーン少年合唱団のような天使の歌声ではなく、純粋無垢な、しかしどこか人間くささのただよう、あえていえば福井人らしいぬくもりのこもった声だという気がした。

                    ***

 子供たちの歌声にいちばん癒やされていたのは、坪口さん本人だったのかもしれない。ソアーベというのはイタリア語で“ここちよい”というような意味だそうだが、彼にとってまさにソアーベな居場所だったはずだ。何せ30年ものあいだ、次から次へと入団してくる幼い命から歌を引き出し、皆で力を合わせて音楽を作り上げる喜びを植えつけてきたのだから。

 30年の区切りの演奏会を目前に、坪口さんは力尽きた。葬儀には、かつての合唱団員をはじめ大勢の人が参列し、焼香の列が斎場に入りきらないほどであったという。

 ぼくの同級生だった女の子も、そこに加わっていただろうか。もちろん今は女の子ではなく、おそらくは子持ちのオバサンになっているだろうけれども、幼いころに教わった歌の心は、そう簡単に消えるものではない。願わくば、そうやってソアーベな世界が広がっていくことを、坪口さんは祈っていたのではなかろうか。

                    ***

 最大の大黒柱を失った合唱団は、奥さんの伴奏のみで指揮者なしの30周年記念公演を終え、解散した。

 だが、このままでは終われない。いくら出生率が低下したといえども、世の中には次々と新しい子供たちが生を受けて誕生してくる。そんな幼い命に、歌を通じてここちよさを伝えていけたらいい。何もかもが数字で採点され、優劣がつけられ、低学年のときからすでに受験戦争へ向けての準備がはじまろうとしているこの時代だからこそ・・・。

 坪口晴美さんは、子供のコーラスグループを新たに立ち上げ、つい先日、はじめてのコンサートが開かれたという。福井の子供たちの歌声がこれからも途絶えることなくつづくであろうことを、ぼくも楽しみにしている。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

この随想を最初から読む

土と火のうた ― 鈴木治の“泥象” ― (1)

$
0
0

〔京都国立近代美術館の外観〕

 涼しげな水色の上に、茶色の愛らしいかたちが等間隔に並んでいる。そんなポスターが、京都のあちこちに貼り出された。

 それが陶芸の展覧会のものだとは、気がつかない人も多いだろう。焼物というのは、ある程度までは人の力で作ることができるけれども、そこから先は“火の神”にすべてを委ねざるを得ない芸術だ、と聞いたことがある。つまり、土を捏ねたり轆轤をひいたりしてうまく仕上げても、窯から出すまではどうなっているかわからない、と。

 だが、そのポスターのなかに並んでいる造形は、あまりにも完成度が高いような気がした。何も知らない人が見たら、器用なパティシエがこしらえたチョコのオブジェかと思うであろう。丸みを帯びたポップな形状といい、見事に計算された茶色のグラデーションといい、ひと眼見て「可愛い」という言葉が口をついて出るようなそのシリーズを、作者は「泥象(でいしょう)」と名づけたという。

 その呼び名を最初に聞いたとき、子供のころに宮沢賢治は自作の詩を「心象スケッチ」と呼んでいた、と教えられたときのかすかな興奮を、なぜか思い出していた。いわば、これらは泥によるスケッチなのだろうか。この世にふたつとないような奇抜な、それでいて根源的な何かに触れているように思われるかたちをしたこの作品群は、どういった人の手から生み出されたのか。

                    ***


〔「泥象 鈴木治の世界」のチケット〕

 その人の名前は、鈴木治。かつて、八木一夫と同じ走泥社というグループで活動した人物である(八木については「平安神宮の鳥居の近くに(4)」を参照)。

 ぼくが京都に住みはじめたころには、八木はとっくに世を去っていたが、鈴木はまだ健在であったはずだ。だが、美術館の常設スペースでたまに作品を見かける程度で、その存在を意識しはじめたのは遅かった。ぼくは当時、あくまでも“火の神”の手荒い洗礼を受けて生み出された人知の及ばぬ焼物のほうに惹かれていた。

 2001年のこと、鈴木治と、やはり同じ走泥社のメンバーだった山田光が相次いでこの世を去り、前衛陶芸のともしびが一気に消えたような気がした。その不意にあらわれた空隙が、彼らの存在に眼を向けるきっかけになったとしたら、何とも皮肉なことだ。

 それから12年、ようやく鈴木の仕事の全容を振り返る機会がやって来た。あの可愛らしいポスターに導かれたわけではないが、ぼくはわくわくしながら岡崎公園に足を運んだ。かつて、八木一夫の素晴らしい回顧展を見せてくれたあの近代美術館へと。

つづく

土と火のうた ― 鈴木治の“泥象” ― (2)

$
0
0

鈴木治『数ノ土面』(1963年、福島県立美術館蔵)

 展覧会のサブタイトルには、次のような言葉が掲げられていた。鈴木治自身が発言したものだという。

 《「使う陶」から「観る陶」、そして「詠む陶」へ》

 「使う」から「観る」への移行についてはよくわかる。従来の壺とか皿とかに飽き足らない陶芸家たちが追い求めたのが“用の美”からの脱出であった。

 初期の鈴木治も、ご多分にもれず実用的な器のたぐいを多く制作していて、今展にも出品されていたはずだ。だが、今思い返してみても、それがどんな作品だったかどうしても思い出せない。これはぼくの怠慢ということもあるだろうけれど、鑑賞者の心に引っかかるような魅力に乏しかったということだ。

 逆にいえば、それが“用の美”の条件を満たしているということでもある。あまりに強い自己主張をする器は、普段使いには向かない。いつもは意識の層の下にもぐり込んでいるけれども、ふと手にしたときに、よく馴染んだいつもの手触りがよみがえる。それこそが、器の存在感なのである。

 それに反して、いかなる実用性ももたない、いいかえれば何の役にも立たない陶芸作品を生み出そうとしたのが、走泥社のメンバーであった。その野心は、八木一夫が『ザムザ氏の散歩』で、円形の容器を縦にしてしまうことによってひとつの指標を獲得しはしたが、何せこれまで誰もやろうとしなかったことだから、際限のない試行錯誤が彼らを待っていたはずだ。

 『数ノ土面』は、そんな模索の時期をあらわす一例である。表面をびっしりと埋め尽くす数字は、手書きではなく、おそらく活字であろう。たしかに従来の陶芸にはなかった試みだといえるが、こんなことで前衛陶芸の未来が開けるとは、鈴木も考えていなかったのではないか。彼の冒険を嘲笑うように、陶の表面には大きな亀裂が入り、それが焼物の“味”となっているところは、皮肉な感じがしないでもない。

                    ***


鈴木治『土偶』(1963年)

 同じ年に作られた『土偶』にも、何やら黒い線がびっしりと引かれている。それが器の装飾としてのものではなく、もっと独立した何かを追い求めたために、土の質感を示す部分とそうでない部分とがはっきりわかれ、一種の分裂症状をきたしている。それは痛々しいほどである。

 鈴木治はその後、こういった表現を捨ててしまった。作品のマチエールは、美しく、統一感のとれたものとなっていく。ただ、『土偶』にも、のちの鈴木の作品へと発展する萌芽がたしかにあるだろう。

 それは、焼物を支える二本の“足”である。『ザムザ氏の散歩』のひょろひょろした足とはちがい、どっしりと大地を踏みしめて立つようなたくましさが、観る者を安心させる。『いつも離陸の角度で』など、アクロバティックともいえる不安定な造形を追求した八木一夫との個性の差が、すでにはっきりとあらわれているのである。

つづきを読む
この随想を最初から読む

土と火のうた ― 鈴木治の“泥象” ― (3)

$
0
0

鈴木治『馬』(1971年、京都国立近代美術館蔵)

 いかにも鈴木治らしい、一切の無駄を排したかたちが姿を見せはじめた。『馬』は、なかでも彼の陶芸のエッセンスを示すものといってもいいかもしれない。この美術館の常設展示で、何度もお眼にかかった一品でもある。

 『土偶』ですでにあらわれていた二本足は、馬ののびやかな姿態を、いささか頑丈すぎるほどの強度で支える。具体的な描写など何もないのに、なるほど馬だな、とたちどころに納得させられるのは、鈴木が対象の特徴をよくとらえている一方で、削ぎ落とすべき細部を入念に検討したからではなかろうか。そしてそれはもちろん、捏ねた土を徐々に積み上げていきながら、彼の手と心とが成し遂げた仕事であった。

 ろくろを回す作業というのは、考えてみれば驚くほど職人的だ。回転する土の速度に、もはや詩情はついていけない。そこから皿や壺といった見事なかたちを作り上げるのには、技術がものをいう。ある意味で機械的であり、単調なルーティンワークに似ているかもしれない。

 “用の美”を抜け出すということは、もの作りの素朴な喜びを取り返すという試みでもあったはずである。信楽の土を紐状にのばし、少しずつ重ねることによって、意味のあるかたちが作り出される。その上に、薄く溶いた赤土を塗り、焼き締める。彼の“泥象”のかずかずは、そうやって仕上げられたようだ。もはや荒れ狂う炎にその生命を委ねるまでもなく、詩人によって彫琢された言葉のように、自立した姿で鈴木の手から生み落とされた。

                    ***


鈴木治『馬』(1977年)

 今回はじめて知ったのは、彼が美しい青白磁の作品も多く残していたことだった。

 同じ馬をモチーフにしても、こちらはまったく印象が異なる。太く堂々としていた足は、辛うじて胴体を支えられる程度の短さになり、まるでダックスフントのようだ。馬の首は繊細に折り曲げられ、全体に丸みを帯びた造形が眼を惹く。

 赤茶けた土の素朴さとは異なる、洗練された姿。そこには、鈴木の詩心といったものがいっそう磨き込まれたかたちで反映しているように思われた。彼の新しい一面を知ることができて素直にうれしかったが、“泥象”とはちがう珠玉の作品があまり世に紹介されていないのは残念な気もした。

つづく
この随想を最初から読む

土と火のうた ― 鈴木治の“泥象” ― (4)

$
0
0

鈴木治『消えた雲』(1982年)

 陶芸は、やはり土でできているからか、そのモチーフにおいても地面との親和性が高いように思う。たとえば花瓶に花が生けられていると、あたかも土のなかから植物が生えているように感じられる。というよりも、それを模擬的に再現しているところに、ガラスなどにはない象徴的な意味合いが含まれているというべきだろうか。

 だが、無用のものたらんとして生み出された鈴木治の陶芸は、そういった土の呪縛をもすり抜けてしまったようだ。『消えた雲』は、おそらく彼以前には誰も思いつかなかった造形ではないかと思う。

 公募展などで焼物を観ていると、実は意外なほど雲の名を冠した作品は多い。だが、それらは雲が棚引いたように見える装飾を施すなどの、あくまで飾りであり、模様である。その代わりに鈴木は、いったいどうやって作ったのか、と首を傾げたくなるような器用さで、雲の“輪郭”を土に彫り込んでみせた。

                    ***


参考画像:八木一夫『雲の記憶』(1959年、京都市美術館蔵)

 ぼくはここでどうしても、反射的に八木一夫の『雲の記憶』を思い出さざるを得ない。これも、この美術館とは道路を挟んで反対側にある京都市美術館でよく眺めた作品だった。

 雲というよりは枕のようだな、という感想を抱かせるこの奇抜な陶芸は、ウミウシに似た軟体動物が逆立ちをしているところにも見える。八木が自作につける題名は、いつも詩的で、重層的な意味を含んでいるように思われる。雲のやわらかさと、意味ありげなトンガリの混じり合った複雑な意匠が、露骨に“土”とわかるマチエールによって、強引にまとめ上げられているのである。

 なお、この画像では何の支えもなしに立てて置かれているが、実際には地震などで転倒することを警戒してか、紐状のもので補強して展示されているのが普通だったはずだ。しばしば陶芸展で見かけるこういった措置は、必要とはいえ、ぼくはあまり好きではない。だが、こういった引力に逆らうような大胆な造形力が、八木一夫の個性であり、彼の偉大さでもあった。

 それに比べて鈴木治は、無理なひねりのない、単純明快なフォルムに到達したといえる。観る者を考え込ませることはないが、心にストレートに響いてくる。作品の表面に施されたグラデーションの美しさは、これがあの重たい土からできているということを一瞬のあいだ忘れさせてくれるだろう。

つづく
この随想を最初から読む

土と火のうた ― 鈴木治の“泥象” ― (5)

$
0
0

鈴木治『鳥』(1980年、東京国立近代美術館蔵)

 1979年、前衛陶芸の先頭を走っていた八木一夫が急死する。その翌年に鈴木治が制作した『鳥』は、天に昇っていった八木に追いすがりたい気持ちをあらわすようにも見えるし、彼なりの“離陸”のポーズを追い求めた作品にも見える。

 陶芸の世界では、ろくろを使用することでほとんど完璧に近い円形を作り出すことができるはずだが、鈴木が造形した緩やかなカーブは、いったいどうやって作られたのだろう。機械に頼らないとすれば、もちろん彼の手の技によって生み出されたはずだ。そのあまりのバランスのよさ、精巧な仕上がりに、溜め息が出る。

 ただ、ときとして、作品がこぢんまりと纏まりすぎている印象を受けないでもなかった。あのザムザ氏のように、どこへでも触手をのばしていこうとした野心的な八木に比べると、鈴木はおのれの世界に早くから安住してしまった感がある。

 事実、彼は同じ形状の作品を連作のように繰り返して作る傾向があり、お気に入りの造形のパターンが何種か存在したようである。そこに、彼の創造力の限界をみることも、おそらく間違ってはいまい。

                    ***


鈴木治『泥象 春ノ木・萌芽』(1997年、世田谷美術館蔵)

 だが、次々と手広く事業を拡大しようとする現代の企業の無節操な傾向に比べると、おのれの到達した世界を後生大事に守ろうとする姿勢は、やはり工芸の最前衛に立った男の姿勢としてふさわしかったのではないか、という気もするのだ。焼物の聖地である五条坂の出身という誇りが、最後まで彼のなかにくすぶりつづけていたはずである。

 『泥象 春ノ木・萌芽』は、ほとんど晩年の作品といっていい。けれども、この伸びやかさ、未来に向かって広がっていこうとする健やかさはどうか。シャープな造形の“切れ”、見事に計算されたプロポーションの見事さは、70歳を過ぎた人の仕事とは思えない。

 だからこそ彼の突然の死は、陶芸界に計り知れない衝撃を与えたのだろう。それから干支がひとめぐりした今、その作品は少しも古くなっておらず、むしろ現代にうまくフィットしているようにすら感じられる。

 焼物など古くさいと思っている若い人に、ぜひ体験してほしい展覧会だと思った。

(了)


DATA:
 「泥象 鈴木治の世界」
 2013年7月12日〜8月25日
 京都国立近代美術館

この随想を最初から読む

タローとタンゲ(1)

$
0
0


 今年は、建築家の丹下健三が生まれて100年目だという。

 といっても、関西ではあまりピンとこない名前かもしれない。調べてみると、彼は大阪の堺市の生まれだが、生後間もなく父の仕事で海外を転々としたらしい。少年期は愛媛の今治で送り、その縁もあってか四国には彼の作品がたくさん現存している。

 先日は広島で平和記念式典が挙行され、屋根のかたちをした慰霊碑の前に花が手向けられるシーンがテレビに映し出された。多くの人々が参列する背後には、原爆資料館の直線的な建物も映っていたはずだ。これらはいずれも、丹下の設計である。もっといえば、平和公園全体が彼の設計になるものであって、資料館と慰霊碑と原爆ドームを一直線状に配置したのも、丹下の発案であった。

                    ***

 ぼくも何年か前にそこを訪れたことがあるが、テレビで断片的に見かける以上に、平和公園のモニュメンタルな意義というものがひしひしと伝わってくる感じがした。その日は原爆の日というわけではなく、しかも早朝から雨が降りつづくあいにくの天候だったが、人が少ないせいで丹下が構想した“祈りの場”の骨組がよくわかった。

 なおそのとき、原爆資料館は開館前なので入ることができなかったが、ロビーのなかにある「地球平和監視時計」のデジタル数字はガラス越しに見ることができた。時計は二段からなっていて、上段には広島に原爆が投下されてからの日数が、下段には最後の核実験から何日目かを示す数字が表示されている。ぼくが訪問した2007年の時点で、北朝鮮が前年におこなった核実験から起算した日数が刻まれていたはずだが、その2年後、ふたたび北朝鮮の核実験を受けて、時計はいったんリセットされた。

 そして今年2月、またも北朝鮮がおこなった3回目の核実験により、時計はゼロに戻されたはずだ。核のない平和への日々を着実に積み重ねるよりも、その道程が遅々として前に進まないことを、われわれに印象づける結果となってしまっている。

                    ***

 一方、前から何度も取り上げている岡本太郎の壁画『明日の神話』も、原爆に着想を得た作品だといわれる。

 ただ、その絵は渋谷の雑踏を見下ろす場所に設置され、平和への静かな祈りよりも、サッカーのサポーターが巻き起こす乱痴気騒ぎのほうが身近な環境に置かれているということが、ぼくには残念な気がする。ただ、もし太郎が生きていれば、参列者の黙祷や首相の演説といった辛気くさいことはきっと好まないだろうから、これでよかったのかもしれない。

 岡本太郎は、丹下健三より2歳年長であった。このふたりの巨人は、のちに触れるようにいくつかの接点があったのだが、ひょっとしたら『明日の神話』を描くときに、丹下が設計した平和公園のことが太郎の頭にあったことも考えられる。整然と構成された“祈りの場”の重要性を認めつつも、あえてそれとは相反する、色彩と形態が乱雑に入り乱れたダイナミックな壁画を描いてやろうとしたのかもしれない。彼の残した名言「芸術は爆発だ」にならえば、おとなしくかしこまった作品など描くわけにはいかないからだ。

(画像は記事と関係ありません)

つづきを読む

タローとタンゲ(2)

$
0
0


 冒頭に、丹下健三の名前が関西では馴染みが薄いようなことを書いたのは、彼がもちろん東京都庁舎の設計者であるからだ。いわば東京の顔ともいうべきものを手がけた彼が、関西色をも同時に帯びるのは不可能なことだろう。蝶ネクタイをした洒脱なかっこうを押し通していたことも、洗練された都会人としての丹下のイメージを強めることに役立った。

 たとえば大阪生まれ大阪育ちの安藤忠雄が、テレビや講演会でも平気で大阪弁を話し、ネクタイなどほとんど身につけず、売れっ子になってからでも一種の“野暮ったさ”を醸しつづけるのとは大きなちがいだ。そのせいか、安藤には東京での作品もたくさんあるのに(たとえば「表参道ヒルズ」や、以前このブログでも紹介した「21_21 DESIGN SIGHT」など)、どうしても“大阪の建築家”といった先入観がつきまとう。

 そういった一種のローカルカラーが、建築家という仕事を進めるうえでどういった影響を及ぼすのか、ぼくは知らない。いや、安藤ほどに洋の東西を股にかける存在になってしまうと、もはや大阪が世界の建築を占領してしまったような錯覚に陥ることさえなくはない。安藤は独学で建築を学んだということが、これに拍車をかけているといえるだろう。いってみれば、エリートではなく突然変異で生まれた風雲児が世の中の権威を次々となぎ倒し、快進撃をつづけるのを眺めるような爽快感があるのである。

                    ***

 全盛期の岡本太郎の役割が、まさにそういうものだったのではないか、とぼくは想像したくなるのだ。太郎は17年前まで生きていたので、もちろんぼくもテレビで見たことがあるし、彼の生前に福井で開かれた大規模な展覧会にも出かけている(そこにはまだ行方不明だった『明日の神話』の習作も展示された)。

 しかし、太郎の作品が世の中に異様な反響を巻き起こし、抵抗されながらも活動の場を徐々に広げていった、その過程をリアルタイムで知っているわけではない。太郎はかつて大阪万博のテーマ館をまかされ、公的な立場でありながら極めて彼らしさにあふれた「太陽の塔」をおっ立てた。ある意味で、それは暴挙にほかならなかった。

 このへんのいきさつは、2年前にNHKで放映されたドラマ「TAROの塔」でも描かれていたように思う。万博の総合プロデューサーだった丹下が設計した大屋根をぶち抜いて聳えたその塔は、行く手に立ちはだかる障害物に体当たりして乗り越えていこうとする太郎の奔放さをよくあらわしている。

 結果として、「太陽の塔」は永久保存されることが決まり、丹下の大屋根はごく一部が万博記念公園に残されているだけだ。タロー対タンゲという図式で考えれば、明らかにタローの勝ちであった。丹下健三の存在感が関西で希薄に感じられるのは、そういった事情も絡んでいるのかもしれない。

(画像は記事と関係ありません)

つづく
この随想を最初から読む

タローとタンゲ(3)

$
0
0


 丹下が設計した新都庁舎は西新宿にある。ただ、ぼくはこれまで二度ほど新宿を訪れたことがあるけれども、都庁は遠くから眺めたことしかない。特に用事がないのはもちろんだが、わざわざ建築を観るためだけに近くまで行ってみるのも、何だか気が進まなかったからだ。

 よく知られているところでは、お台場にあるフジテレビの新しい社屋も、丹下の設計である。まことに奇抜な建物だとは思うが、これまで東京に行ったおりにも、「ゆりかもめ」に乗って出かけてみようという気にはならなかった。正直にいうと、芸能人が多く出入りするようなマスコミの拠点をわざわざ覗くのは、ぼくの趣味ではない。

 これまで東京で実際に観た丹下の作品といえば、NHKの近くの代々木競技場と、銀座をぶらぶらしているときに遭遇した静岡新聞・静岡放送の東京支社(ここもマスコミだが)ぐらいだろうか。いずれも“ハコモノ”としての常識を覆すような実験的な建物だったが、特に前者は今でも大きな大会で頻繁に使用されているようだ。フィギュアスケートでも、体操の選手権でも、背景に内部の空間が写ると、あああそこだな、とすぐわかる。

 ただ、東京オリンピックの施設として作られた代々木競技場は、外から観るとかなり傷んでいるところも多かった。新しいビルをどんどん建てるのも結構だが、古いもののメンテナンスを積極的に進めることも考えないと、東京はペラペラの薄っぺらい街になってしまうのではないか、と老婆心ながら思う。

                    ***

 新宿に高層ビルの都庁が建つ以前のこと、古い都庁もまた、丹下による設計であった。それは丸の内にあり、跡地は東京国際フォーラムになっている。

 ここでも、タローとタンゲのコラボレーションというか、共同作業があった。岡本太郎の壁画がいくつか、庁舎内に設置されていたらしい。

 都庁が移転し、古い建物が壊されることになると、岡本太郎の壁画のみを取り外して保存しようという動きもあったが、結局は庁舎とともに瓦礫と化してしまった。太郎は、自分の作品が破壊されていくのを涼しい顔で見学していた、という話も聞いたことがある。

 メキシコのホテルのために制作され、経営破綻のため所在がわからなくなっていた『明日の神話』が郊外の資材置き場で雨ざらしになっているのが発見されたのは、太郎の死後7年目のことだった。太郎の秘書で養女でもあった岡本敏子が復元に尽力し、今では完全なかたちとなって渋谷に設置されているのは、前にも書いたとおりである。

 だが、自作の保存に関する太郎の無頓着さを考えると、これはまったく作者の望んでいなかったことだったのではないかと思う。太郎の生前に『明日の神話』が発見されなかったのは、彼が“探そうとしなかった”からなのだ。

(画像は記事と関係ありません)

つづく
この随想を最初から読む

タローとタンゲ(4)

$
0
0


 丹下健三は、成城に自宅をもっていた。みずからが設計した建物だが、現存はしていない。ただ写真を観ると、水平に連なる窓とピロティとを組み込んだ、ル・コルビュジエの「サヴォア邸」を彷彿とさせる姿をしている。

 成城というと、ぼくなどには大岡昇平や水上勉、大江健三郎らが暮らした一等地というか、世間から隔たった特別な場所というイメージがあるが、本当のところはどうなのだろう。丹下が住んでいたいわゆる「成城の家」も、時代を代表する才能たちが結集するサロンのような状況を呈していたらしい。

 「芸術新潮」誌の8月号には、そこで撮影されたプライヴェートな写真がたくさん掲載されていて興味深かった。もともと平和公園の慰霊碑を設計するはずだったイサム・ノグチ(彼にはアメリカの血が混じっているということで反対意見が多く、結局丹下が設計することになったといういきさつがある)、草月流の家元である勅使河原蒼風、柳宗悦の息子でありバタフライ・スツールを残した柳宗理、ヤクルトの容器のデザインでも知られる剣持勇、東京オリンピックのポスターを手がけた亀倉雄策らの顔が写っている。まさに、時代の寵児が一堂に会して談笑したり酒を酌み交わしたりしている、夢のような場面だ。

 そしてあの岡本太郎も、まだ口髭をたくわえていたころの姿を見せている。彼が「夜の会」という前衛芸術集団に属していたことは知っていたが(岡本敏子とはこの会で知り合ったといわれている)、こういったコミュニティーのようなところに自然に出入りしているとは、少し意外だった。彼は自分の意見を一貫して主張し、決して譲らず、周囲とのあいだに壁を築き上げてしまう不器用なところがあるように思っていたのである。

                    ***

 今から5年前に大阪で、「北大路魯山人と岡本太郎展」というのを観たことがあった。孤高の道を歩んでいたと思われがちなふたりの巨人の知られざる交流を示す、興味深い展覧会だった。

 そのとき買った図録を改めてめくってみると、興味深い写真が眼についた。岡本太郎が主人となり、青山の自邸の庭で開いた「実験茶会」の様子である。太郎はいつものオールバックの頭に口髭、それとはまったく似合わない紋付袴を身にまとい、かしこまって茶を立てている。椅子に腰かけてそれを見守るのは、魯山人のほかに若き芥川也寸志、そして丹下健三の、これまた茶会とはそぐわないスーツを着込んだ姿である。1955年の撮影だという。

 今は岡本太郎記念館になっているあの場所で、かつてこれだけのスターたちが集まって“異業種交流会”が開かれていたとは、それだけでも驚きだ。ぼくが丹下や魯山人のことを知ったのはずっとあとのことだが、小学校の高学年ぐらいのころには、NHKのテレビでクラシック音楽の魅力をわかりやすく伝えてくれる芥川也寸志は憧れの存在だった。そして、同じころに観た岡本太郎の回顧展は、まるで熱病にかかったようにぼくを興奮状態に陥れていた。

 めいめいの作品や、年譜に書かれていることがらを超えたところで、彼らがときに親交を深め合い、“日本をおもしろくする”ことに心血を注いでいたことが、当時の写真から伝わってくる。皆が鬼籍に入ってしまった今、この勢いは誰に受け継がれているのだろうか。21世紀の日本が、何だかつまらない、味気ないものになっているとしたら、破天荒なタローと几帳面なタンゲが、そしてそれらを巻き込む巨大な推進力とでもいうべきものが、すでに息絶えようとしているからかもしれない。

 彼らの存在がすっかり過去のものとなってしまう前に、その遺伝子を再確認する作業は、是非ともやっておくべきだろう。この混迷の時代を切り開くのは、既成の型に嵌まろうとしなかった野心的な連中の創造力であり、それを実現せしめる冒険心であったと思うからだ。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

この随想を最初から読む

ルノワールと、その他の名品(1)

$
0
0

〔美術館のロビーではルノワールの少女像が出迎えてくれる〕

 ルノワールは、疑いもなく、日本で最も親しまれている画家のひとりである。近年とみに有名になったフェルメールや伊藤若冲とはちがい、昔から知名度は抜群だった。

 しかし、クラシック音楽に詳しい人が「自分はチャイコフスキーの曲が好きだ」と宣言することにためらいを覚えるように、美術に精通した人がルノワールのファンであることを公言することは、あまりないように思われる。通俗的すぎるからか、それとも美少女の絵が多いせいかはわからないが、しかし内心は、おそらく嫌いではないはずである。

 ぼくも美術に出会った当初から、ルノワールの絵に魅了されつづけてきたひとりだ。まだ7歳のころ、生まれてはじめて鑑賞した西洋名画展の図録の表紙は、ルノワールの愛らしい姉妹の絵で飾られていた。ぼくはそれを親にねだって買ってもらい、来る日も来る日も眺めて楽しんだものだった。

 宗教画や歴史画と比べて、ルノワールは“理解する”必要がない。だから、子供でもすぐに好きになれるのである。誤解をおそれずにいえば、眼の保養として、これほど上質のものはないのではないか?

                    ***


〔「ルノワールとフランス絵画の傑作」のチケット〕

 ルノワールは印象派のひとりであると、美術の本には書かれているだろう。だが、彼が印象派の画家だったのはほんの短い期間にすぎなかったのではないかと、ぼくは考えている。彼は視覚に映じるイメージよりも、対象の存在感や、触感すらも描き出そうとした。とりわけ晩年にはその傾向が著しく、重量感にみちた女たちがたくさん登場するのは、彼がおぼろげな印象などでは満足できなかったことをよく示しているように思う。

 ルノワールという人は、晩年病魔に苦しんだわりには長生きで、作品も多い。日本の美術館にも、さまざまな時代の作品が収蔵されていて、ぼくも何度か観る機会にめぐまれている。

 だが、このたび兵庫県立美術館で公開されたアメリカのクラーク夫妻のコレクションは、ルノワールだけでも30点を超えるほどの充実ぶりを示しているという。そのうち22点が、他の画家の優れた作品とともに展示されていたのだが、ルノワールの絵が展覧会のクライマックスを受け持つということは、実はあまり多くない。そこには、日本人がルノワールに対して抱いている複雑な心情が反映されているような気もするのだが、どうだろう。

 それはさておき、とある猛暑の一日、涼しい館内で久しぶりにフランス絵画の巨匠たちとじっくり対面して過ごしたときのことを、少しずつ振り返ってみることにしたい。

つづく

ルノワールと、その他の名品(2)

$
0
0

カミーユ・コロー『サン・タンジェロ城、ローマ』(1835-1840年)

 前にも書いたかもしれないが、この手の展覧会はコローの絵からはじまることが非常に多い。バルビゾン派のひとりとされているが、その範囲内にとどまらず、古典的な絵画が重んじられた時代から次なる新しい世代への過渡的な役割を果たした存在だからだろう。

 30代の終わりから40代の前半にかけて描かれた『サン・タンジェロ城、ローマ』は、そんな彼のアカデミックな一面をよく示しているように思う。コローは生涯に何度かイタリアに旅行し、ローマあたりに滞在していたこともあるというから、おそらくは実際に見た風景をもとにしている。

 当時はフランス国家にとっても、イタリアの芸術こそが規範とすべきものとされていた。優秀な若手には「ローマ賞(ローマ大賞ともいう)」なるものが授与され、ローマに留学する権利が与えられたのである。たとえば作曲家のベルリオーズやドビュッシーも、そうやってローマの地を踏んだわけだが、どちらもアカデミスムとは正反対の実験的な作品を残したことで歴史に名をとどめているのは、大いなる皮肉といえようか。

 コローはローマ賞こそ受けていないが、古典的な美の世界への憧憬を抱いていたことは、この絵にもよくあらわれている。サン・タンジェロ城というのは、廃墟のような姿で右側に描かれた建物で、中央に聳えるドームは、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂にちがいない。その手前には、ローマの水道橋を思わせるアーチ状の橋が架かっている。

 実際にこのとおりの風景がローマにあるのかどうか、ぼくは知らない。いや、先ほど廃墟のようだと書いたが、コローの頭のなかで再構成された、古きローマの姿ではなかろうか。そんな非現実の情景を、画面の左から射す日の光がくっきりと浮かび上がらせ、あたかも眼の前にあるかのごとく立体的に見せている。

 しかしコローにとって、こんな世界が“まやかし”にすぎないことが明らかになるのは、時間の問題だった。

                    ***


カミーユ・コロー『ボッロメーオ諸島の浴女たち』(1865-1870年)

 前作から30年後に描かれた『ボッロメーオ諸島の浴女たち』は、やはりイタリアを舞台とした絵であるが、アカデミックな要素はほとんど跡形もなくかき消されてしまっている。

 ボッロメーオ諸島というのは、海上ではなく、湖に浮かぶ島々のことらしい。対岸に教会のような建物がうっすらと見えているが、それはほんの添え物にすぎず、水中から生えた鬱蒼たる木々と、その周りで戯れるふたりの全裸の女性が眼を奪う。

 もちろん、当時のイタリアに、一糸まとわぬ姿で水遊びをする女がいたとは考えにくい。これらはやはり、画家の空想の産物なのだろう。実在の場所を舞台にしつつも、そこを大胆に“コロー流”の世界に塗り替えてしまう創意こそが、個性的な芸術が花開く近代への道を切り開いたのだといっていい。

 だが、ルノワールをはじめとする印象派の連中は、そういった幻想性には寄りかからない、もっとドライな創作態度の持ち主なのであった。

つづきを読む
この随想を最初から読む

ルノワールと、その他の名品(3)

$
0
0

テオドール・ルソー『ランド地方の農園』(1844-1867年)

 「えっ、これがルソー?」と、思わずつぶやいてしまいそうな絵があった。ルソーといってもアンリ・ルソーではなく、ミレーと並んでバルビゾン派を代表するテオドール・ルソーである。

 とはいっても、ぼくがこれまで記事のなかで彼に触れたことがあるのは、たったの一度きりだ(「テツの東京鑑賞旅行(13)」)。そのとき、ぼくはこんなことを書いている。

 《テオドール・ルソーにとって、木や森は単に植物というだけではなく、画家生命を賭けて向き合うだけの大きな存在であり、自分を受け入れてくれる家のようなものではなかったろうか。》

 だが、よく読み返してみると、これはルソーひとりに関することがらではないともいえる。彼はミレーとともに、フォンテーヌブローの森の開発に反対して、自然を守ったということだ。その業績をたたえて、バルビゾン村にはミレーとルソーの顔が並んで彫られた記念碑が残っている。

 ただし、ミレーとテオドール・ルソーとはかなり性格の異なる画家ではないか、とぼくは思う。ちょうど、印象派におけるモネとルノワールのような関係にあるといえようか。片方が自然描写にのめり込めば、もう片方は人間の表現に活路を見いだした。

 『ランド地方の農園』は、そんなルソーのなかでも、とりわけ精緻に描かれた一枚であろう。自然のダイナミズムを表現する代わりに、まるで時間の止まったような、理想化された農村の風景がそこにある。この絵は、今回の展覧会のなかでもっとも多くの人々を惹きつけているようだった。ぼくもしばらく立ちすくんで眺めてしまったが、ルソーが“自分を受け入れてくれる家”としてこれを描いたかどうかは疑問に感じた。それほど、この風景は美しく、いってみれば作り物のようによくできているのだ。

                    ***


ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女、バルビゾンの平原』(1862年以前)

 それに比べると、ルソーの盟友であるミレーは、自然を舞台に生きる人々を美化することなく描いている。少なくとも、『羊飼いの少女、バルビゾンの平原』を観るかぎり、そうである。この少女は、さりとて美しくもなければ、崇高でもない。羊飼いというおのれの仕事を忘れ、口を半開きにしたまま編み物に熱中するさまは、いってしまえば愚かにも見える。

 ただ、これと同じモチーフを扱った有名な『羊飼いの少女』では、彼女の存在が不思議なほど尊く思われてくる。ポーズはほとんどそのまま流用されているが、顔が愛らしく描き直されていることも、その一因だろう。


参考画像:ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』(1864年、オルセー美術館蔵)

 しかし、ぼくは背景の卓抜な処理にこそ、ミレーのたくらみが潜んでいるのではないかとにらんでいる。人物の姿が地平線を突き抜けて聳えているところが、いかにも存在感のある、気高いイメージを抱かせるのだ。あの『種まく人』だって、『晩鐘』だって、そのように描かれているではないか。

 ミレーも、自然のありのままの様子をただ描写したわけではなく、人間のあるべき姿を、農民に託して表現しようとした。ルソーとミレーがフォンテーヌブローの森を守るために奔走したのは、単なる環境保全ではなく、自分たちの芸術の理想像を維持するために必要だったからかもしれない。

つづきを読む
この随想を最初から読む

ルノワールと、その他の名品(4)

$
0
0

コンスタン・トロワイヨン『ガチョウ番』(1850-1855年頃)

 トロワイヨンは、バルビゾン派の中核をなすひとりだ。なかでも、動物の絵が達者なことで知られている。

 『ガチョウ番』はどちらかというとざっくりした作品で、あまり完成度が高いとはいえない。けれども、そこに描かれているガチョウは生き生きとしており、そのことにまず感心した。流派とか、技法とかいったことを超えて、彼が動物に共感し、喜びをもって描いているのがよくわかる。


参考画像:鈴木其一『鵞鳥図屏風』(部分、江戸後期、細見美術館蔵)

 前にも一度取り上げた鈴木其一(きいつ)の絵をここでもちだすのは唐突かもしれないけれど、どうしても比較してみたくなってしまう。同じガチョウを描いても、洋の東西でこれほどちがうことの証明になるような気がするからだ。前回のミレーの絵でもそうだが、西洋画では動物が家畜として登場してくるのに対し、日本の花鳥画では、基本的に自然界の情景のひとつとして描かれる。そこに人間が登場することは、ほとんどない。

 其一ももちろん、生きている鳥をよく観察して描いたのだろうが、同じ生き物としての共感が芽生えたかどうかは別である。トロワイヨンのガチョウが、人の手によって統率されているにもかかわらずハツラツとした生命力を感じさせるのは、人間とガチョウとの距離の近さというか、関係の深さにあるのだろう。

 群れをなして歩きながら、互いに干渉もせず、思い思いのほうを向いているトロワイヨンのガチョウたち。たとえば休日の都会を散策するホモ・サピエンスという種族にも、似たような光景が垣間見られるように思うのは気のせいだろうか。

                    ***


クロード・モネ『小川のガチョウ』(1874年)

 同じ展覧会で、ガチョウをモチーフにした絵がもう一枚あった。モネの『小川のガチョウ』は、ちょうど印象派の最初の展覧会が開催された年の作品である。

 後年、睡蓮を執拗に描きつづけたように、モネは水との親和性がとても高い画家だ。ここでも小川が舞台になっているのだが、水そのものよりも、水面のさざ波だけを描くことによって表現している。とても野心的だが、ぼくにはちょっと理解しにくい試みだった。

 それはさておき、小川に浮かんでいる数羽のアヒルは、眼などの細部が大胆に省略された姿で描かれている。いってみれば、自然のなかのアクセントの一部としてとらえられているのであろう。背景の住居の前を横切る人物もそうだし、少しさかのぼれば『印象・日の出』に描かれたボートの上の人影だって、ディテールが極限まで省かれている。

 人物の個々の表現に重きを置いたルノワールと袂をわかち、モネが風景の総合的な把握へと進化していくのは、印象派が誕生した時点ですでに予告されていたことなのだった。

つづく
この随想を最初から読む

嗚呼、盆休み(1)

$
0
0

〔日が暮れかかる京都の岡崎付近(昨年撮影)〕

 尋常ならぬ酷暑に見舞われた盆休みが終わった。社会人にとっては、盆休みがすなわち夏休みである。これから年末まで、長い休暇はおあずけだろう。それにしても、休みの期間を計画的に、有意義に過ごすことができないという点では、子供のころからぼくはまったく変わっていない。呆れたものだ。

 今年は祖母の初盆なので、一日だけ福井に帰った。墓参りだけではなく、展覧会も観たのだが、そのことは別の機会に書こう。これから綴るのは、わざわざ暑い京都に出向いて迎えた、8月16日の記録である。

                    ***


〔「浮世絵の夏 ―納涼と花火―」のチケット〕

 その日の昼間は、京都の美術館で過ごすと決めていた。熱中症を予防するためにクーラーは必須としても、電気代がかさむし、電力不足も気になる(今年は電力の使用状況が報道されないので詳しいことはわからないが、関西電力のサイトを見ると、かなり使用率は高いようだ)。

 ただ、美術館にいれば、まず間違いなく涼むことができる。そのことを当て込んで、盛夏の期間中は入場を無料にしているところもある。まことにありがたい次第だが、展示されている作品によっては温度や湿度が厳格に定められている場合もあり、別に来館者を喜ばせるために気温を下げているわけではないかもしれない。

 まず京都市美術館でローカルな所蔵品を(そして同時に涼しさを)堪能したあと、京都駅に向かうために、たまたま眼の前にやって来た市バスに乗った。ぼくは普段、京都での移動は鉄道か徒歩に限っているのだが、夏の気のゆるみというべきか、ついふらふらと乗ってしまったのだ。それが間違いだった。四条から三条へと向かうあいだ、続々とお客が増えてきて、昇降口のポールに押しつけられたまま、ほとんど身動きもできなくなる始末である。

 そうやって赴いた京都駅ビルでは、「浮世絵の夏」と題された展覧会を観た。正直にいってしまえば、別にどうしても観たかったわけではない。ただ、涼を求めてうろつく人には打ってつけの題材だったし、ワイド画面のテレビで汗を拭う市民のニュース映像などを眺めているよりは、手ごろなサイズの浮世絵のなかに日本人ならではの夏を乗り切る知恵を探ってみるほうが意味があるような気がしたのだ。

                    ***


玉川舟調『夏』

 ぼくは浮世絵を鑑賞するのが、あまり上手ではない。ものすごく有名な絵師の作もあれば、ほとんど初耳といってもいい人の作もある。また、似たような名前の人がいたり、誰それの何代目という人がいたり、ややこしいことこの上ない。

 玉川舟調というのも、記憶にない名だ。ただ、この絵の彩色がごく淡いことから、比較的初期の浮世絵ではないか、というようなことが連想されるばかりである。

 ここに描かれている婦人のあられもないかっこうは、いわゆるチラリズムの一種であり、日本の美術が得意とするところだろう。金魚の入ったたらいに手を入れている子供と相まって、夏の暑さを実感させてくれる。当時はクーラーはおろか扇風機さえなく、女が左手に持っている団扇が、人工の風を送る唯一の手段だった。

 しかしこの女性は、胸は大胆にはだけているが、他の部分はしっかり覆い隠している。現代の女性が、素足をむき出しにして街を闊歩している一方で、紫外線対策のために腕だけを黒っぽいカバーで死守している人もいるちぐはぐな光景を、ちょっとだけ思い出した。

つづく

嗚呼、盆休み(2)

$
0
0

溪斎英泉『東都兩國橋夕凉圖』

 夏の風物詩というと、まず花火が思い浮かぶかもしれない。山下清のように、毎年の花火大会を楽しみにしている人も少なくないだろう。だが、最近はそれほど風流なものでもないような気がする。

 花火が打ち上げられている最中はいいのだが、その場所へ出向くまでと、そこから家へ帰るときが大変だ。大阪でおこなわれる「PL花火芸術」は、早い時間から場所取りをする人がたくさんいるという。花火はもちろん夜になってからはじまるのだから、そのために丸一日を費やしてしまうことになる。考えようによっては、何とももったいない。

 そして、花火大会が終了したあとの交通機関の混みようは、誰しも経験のあるところだろう。ぼくは車に乗らないのでよく知らないが、道路も渋滞したりするのかもしれない。それだけではなく、12年前には明石の花火大会で、歩道橋を歩いている見物客が圧死するという大惨事まで起きた。

 ぼくもかなり以前、天神祭のおりだったか、大川に架かる源八橋(げんぱちばし)を渡ろうとして、途中から人ごみに揉まれてどうにも動けなくなり途方に暮れたことがある。天神祭では盛大に花火が打ち上げられるので、橋の上からそれを眺めようという人がいたり、川の対岸に移動して少しでもよく見える地点を探そうとする人がいたり、いろいろの人が橋の上で渦巻き、あの細長い場所に恐るべきカオスを形成したのだ。もしこのまま橋が崩れ落ちたら、誰にもみとられずに夜の川底に沈んでいかなければならないのかと覚悟したほどだった。

                    ***

 だが浮世絵に描かれた様子では、すでに江戸時代から花火大会の大混雑ははじまっていたとみえる。隅田川に浮かぶ船の混み具合も凄まじいが、両国橋の上に鈴なりになって花火を見物する人々の数も、これまたすごい。

 当時、この橋は木造であった。もちろん、かなりの重みには耐えられるように設計されていたにちがいない。しかし橋の経歴を見ると、明治30年の花火大会の際に欄干が壊れ、死傷者を出す事故を起こしているという。この浮世絵に描かれたようなぎゅうぎゅう詰めの状態が毎年つづいていたとしたら、無理もない。

 なお画家の木村荘八は、『両国橋の欄干』という随筆のなかで次のように述べている。

 《欄干は川面から何間位の高さだつたものだらう。ある両国大花火の錦絵などで見ると恐しくそれをアーチ形に高く描いたものがあるが、あれは間違ひである。》

 溪斎英泉の浮世絵が真実をどの程度伝えているのかは知りようがないけれど、花火見物が人ごみとの戦いでもあることは、今も昔もさほど変わらないようだ。

つづく
この随想を最初から読む

嗚呼、盆休み(3)

$
0
0

月岡芳年『月百姿 四條納涼』

 暑さの厳しい京都では、夏の過ごしかたにも知恵がある。鴨川沿いに連なる“床(ゆか)”はその代表だろう。

 今では安価なコーヒーチェーン店が加わったりして様変わりしているが、かつては滅多なことでは手が出せないような高級な娯楽だという印象があった。ぼくはいまだに、いわゆる納涼床で食事をたしなんだことは一度もない。

 以前は現代のスタイルとは異なり、鴨川の水面にじかに床几を設置して涼をとっていたという。その光景を借りて、色っぽいお姉さんをポスターのように描いてみせたのが、月岡芳年である。裾から覗く襦袢の赤が、鮮烈な印象を残す。しかしこの絵はもともと『月百姿(ひゃくし)』という100枚からなる連作のうちのひとつだから、真の主役は空に輝く月なのだ。

 明るい満月が鴨川の水を照らし、女性の足の指先まで鮮やかに浮かび上がらせる。まだ人工の灯火が少なかった時代、中天にかかってさえざえと光を放つ月は、それだけで暑さを忘れさせるような涼やかな存在感を発揮していたのかもしれない。残酷な“無惨絵”で知られる芳年の、ひと味ちがった優雅な画風を示す一枚だといえるだろう。

 今は、こうやって鴨川に足を浸して涼む人はいない。しかし四条近辺の鴨川は、河川敷に等間隔でたたずむカップルの姿といい、無為な時間を過ごして心を癒やすには最適の場所のようであった。

                    ***


〔ライトダウンされる前の京都タワー〕

 さて、大文字が点火される午後8時が近づいてくる。ぼくはあまり実感がないが、この時間になると街の光が消され、多少は暗くなるという。京都タワーなども消灯されるそうだ。

 それに合わせて、ぼくも三条大橋のあたりまで移動した。すでにたくさんの人が集まっていて、警備をする警察官もあちこちにいる。メガホン越しに「この場所から大文字焼きは見えません!」と叫んでいるのは、恐らく他府県から派遣された応援部隊のひとりであろう。京都の人は、送り火を「大文字焼き」と呼ぶことを嫌うからである。

 ビルの狭間から、時間どおりに大の字がほんのりと浮かび上がった。待ちかねていた見物客はいっせいに歓呼の声を上げ、静かに手を合わせようとする人は誰もいない。もともとは先祖の霊を彼岸へ送るための宗教行事であって、昨今はやりのライトアップイベントとはちがうのだが、繁華街の路上で送り火を眺める多くの人にとって、そんなことはどうでもいいらしい。

 警官が声をからして「横断歩道を渡ってください!」と警告しても、道路を横断する人があとを絶たないような場所もあった。これを機会に現代人のマナーをあげつらうつもりもないが、送り火の厳粛な雰囲気を味わうのは、街中では困難なようである。

 ぼくは帰宅後、二度手間かもしれないが、KBS京都で毎年放送されている送り火中継の録画を見た。山の上に読経が流れるなか、「点火!」の声とともに、保存会の人がいっせいに奔走して鮮やかな文字を作り上げる姿には何らの無駄もなく、きびきびしていて、見事だ。暑い京都も、ようやく夏の折り返し点が過ぎたことを実感したひとときだった。

(所蔵先の明記のない作品は公益財団法人平木浮世絵財団蔵)

(了)


DATA:
 「浮世絵の夏 ―納涼と花火―」
 2013年8月15日〜9月9日
 美術館「えき」KYOTO

この随想を最初から読む

ルノワールと、その他の名品(5)

$
0
0

ウジェーヌ・ブーダン『港へ戻る帆船、トゥルーヴィル』(1894年)

 当たり前であるが、水平線というのは、常に水平である。海を舞台に風景を描くとき、画面のなかで水平線をどのように配置するかが、大きな鍵を握る。

 その点で絶妙のバランス感覚を発揮したのが、モネを絵画の世界に導いたブーダンではないかと思う。いつも印象派の添え物のようなかたちで展示されることの多い彼の絵だが、徹底して海のある風景と、千変万化する空の表情を描きつづけたその姿勢は、地味ながら新世代の画家たちの指標となり得たのではないか。

 『港へ戻る帆船、トゥルーヴィル』は、ブーダンがすでに晩年を迎えた70歳ごろの作品だ。すでに印象派展はその役割を終え、モネは各地を転々としたあと、ジヴェルニーの屋敷を手に入れて住み着いている。そこはモネ好みのモチーフに取り囲まれた楽園のような場所で、後年のライフワークとなる『睡蓮』のシリーズが生み出されたことはよく知られている。

 しかしこの年になっても、ブーダンは初期のモネたちが好んで訪れたノルマンディー地方のトゥルーヴィルを描きつづけていたのだ。彼のフィールドは、あくまで外であり、海に面した開放的な空間であった。

                    ***


クロード・モネ『海景、嵐』(1866-1867年頃)

 『海景、嵐』は、印象派の旗揚げよりもずっと前にモネが描いた海の風景だ。のちの彼の作品と比べると、あまりの色彩の暗さに驚く。モネが光の移ろいを画面に取り入れて、細かな筆触を置き並べることでそれを表現するようになるまでには、まだまだかなりの時間が必要であった。

 だが、およそモネらしくはないこの絵に、ブーダンからの影響が色濃く反映しているのを認めないわけにはいかないだろう。画面の中央からやや下を横切る、真っ直ぐな水平線。小さなフランス国旗を掲げながら、白波を蹴立てて進む帆船。

 先ほどのブーダンの絵と比較してみると、中央に小さく描かれていた船をクローズアップしたかのように、よく似ている。いや、時間的にはまったく逆なので、若いモネが描いた帆船の勇姿を、年老いたブーダンが点景として引用したかにも見えるのである。

 『海景、嵐』から数年のち、モネは印象派の代名詞ともなった『印象・日の出』を描くことになるが、くっきりとした水平線の広がりはすでに姿を消していた。しかしブーダンは、かつてモネと出会ったときの記憶を大切にタイムカプセルにしまい、ときどきそれを取り出しては慈しむかのように、表情豊かな海と空と、その境界線とを見つめつづけた。

つづく
この随想を最初から読む

ルノワールと、その他の名品(6)

$
0
0

ギュスターヴ・カイユボット『アルジャントゥイユのセーヌ川』(1892年頃)

 カイユボットも印象派の画家のひとりだが、その作品が紹介されることはそれほど多くないだろう。彼は生まれつきの金持ちで、若いころに貧困を極めたルノワールやモネとは同列に論じられないような、いってみればディレッタント的な側面があるともいえる。

 しかし生活に困ることのなかったカイユボットは、世に認められない盟友たちの作品を購入するなどして、印象派の活動を下支えした縁の下の力持ちであるかもしれない。ぼくは、何年か前に開かれたオルセーの展覧会で床板に鉋をかける男たちの絵を観て強い印象を受けたことがあるが、あまり注目してこなかった画家のひとりであることを白状しなければなるまい。

 だが、今回出品されていた『アルジャントゥイユのセーヌ川』は、そんなカイユボットの画風をモネたちと比べてみるのに絶好の素材であると思った。何しろ描かれているモチーフが、印象派の王道ともいうべきセーヌ川の風景である。アルジャントゥイユにはかつてモネが居住し、この地を舞台にした名作をたくさん残していることもよく知られていると思う。

 けれども、実際にこの絵の前に立ったときに感じた落ち着かなさというか、居心地のわるさはいったい何に由来しているのだろう。おそらくは、セーヌの流れを断ち切ってまるで湖のように見せる構図のせいではあるまいか。もっといえば、逆三角形に水面を切り取る奇抜さが、高めの位置に描かれた水平線とも相まって、大らかな水の広がりを連想させない窮屈なものとなってしまっているのだ。

                    ***


カミーユ・ピサロ『ポントワーズ付近のオワーズ川』(1873年)

 同展に出品されていたピサロの絵と比較すると、そのちがいがよくわかる。『ポントワーズ付近のオワーズ川』は、絵の舞台となった場所は異なるが、川のほとりの工場の煙突から煙が吐き出される、田舎と都会との境界線のようなところが描かれている点では共通している。

 しかしピサロの絵には、印象派の画家の創造力の源ともいうべきものがやはり川の流れにあり、周辺地域がいかに開発され時代が変転しても、一本の川の存在がそれをたちどころに中和してしまう魔力をもっていたことが示されているような気がする。

 もちろん日本の川がかつてそうであったように、不用意な科学的発展の煽りを受けて水質が汚染されてしまうことがなかったとはいえないだろう。だが、ところどころに立っている細い煙突の姿が、右側に描かれているポプラか何かの樹木に紛れてしまう素朴さを、このころの風景はまだ残していた。

 のち、ますます押し進められる近代化とともに周囲の田園地帯が変貌してしまうにつれて、あえてそれから眼を背けるかのように、モネは自邸の庭に作り上げた睡蓮の池の描写に没頭するようになるのである。

つづく
この随想を最初から読む

ルノワールと、その他の名品(7)

$
0
0

カミーユ・ピサロ『エラニー、サン=シャルル』(1891年)

 展示室内を歩いていて、燦然と輝いているような絵が眼に入った。ピサロの『エラニー、サン=シャルル』がそれだ。これまで画集などでも観たことのない、まったく初対面の絵であったが、今日はこの絵と出会うためにここまでやって来たのか、と思えるほどぼくを惹きつけた。

 ピサロが、すべての印象派展に出品しながらも、その作風を何度も変化させたことは知っている。昨年の夏には同じ兵庫県立美術館で大規模なピサロの展覧会を観て、かなり長々と考察を書き連ねたこともあった(「大地から都会へ − ピサロの歩み −」)。73年という長い、けれどもモネやルノワールよりは短い生涯を通じて、彼はひとつの画業を極めるというよりも、時代の流れに寄り添って柔軟に、よくしなる柳の木のように揺らいでみせた。

 そのためか、彼は美術史のなかではあまり重要視されないような気もする。新たな流派を築き上げるような、強烈な個性の持ち主ではなかったからだろう。だが、ピサロの絵を一枚一枚観ていくと、ときにハッとさせられるような表現にぶつかることがある。今回の絵が、まさにそんな一枚だったというわけだ。

                    ***

 印象派は風景の光の効果を追求した、などといわれるが、特にその傾向が顕著だったのは、モネではないかと思う。彼はたしかに、一日の時間の経過とともに太陽の位置が移り変わり、あるいは雲が空を隠すなどして光線の具合が変化するたび、同じモチーフからでも多彩な表情を読み取ることに長けていた。セザンヌは「モネは眼に過ぎない、しかし何という眼だろう」と語ったということだが、いい得て妙である。

 そのせいもあって、モネの絵は、かつての西洋絵画を支配していた“現実の理想化”からは程遠いところにあるともいえるだろう。いや、モネだけではなく、多くの印象派の画家がそうだったのではないかと思うが、彼らは事物の細部を光に埋没させ、色彩の単位に置き換えることによって得られた風景の“仮の姿”を、嬉々として描いていたのだ。印象派の絵画が物質の手触りに乏しく、あくまで視覚を喜ばせることに徹しているのはそのためだし、日本で絶大な人気を誇る理由もそこにあるのかもしれない。

 ピサロももちろん、そんな印象派のひとりだったはずだ。けれども、印象派展が終了してから5年後に描かれた『エラニー、サン=シャルル』には、いつもの見慣れた田舎の風景のなかに、いいようのない神々しさが立ちのぼっているような気がする。まるで木々が天上から光臨したかのように、背後から後光が射している。いや、それはもちろん太陽の光なのだが・・・。

 この作品にみられるような点描法をピサロが用いるようになったのは、ずっと若い年代の新印象派に影響されたからだといわれている。後輩の画風をも自作の肥やしとしてしまうところに彼のフトコロの深さがよくあらわれているが、この絵が描かれた1891年、次世代を担う存在と目されていたスーラは早世してしまう。そのせいもあってか、ほどなくピサロも点描をやめてしまうことになるが、もしピサロがもう少し若く、点描に新たな表現を見いだすだけの時間が残されていたら、20世紀の美術はその容貌を一変させていたかもしれない。

つづきを読む
この随想を最初から読む
Viewing all 342 articles
Browse latest View live