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Channel: てつりう美術随想録
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ルネサンスから現代へ(18)

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優美なるラファエロ その6


ラファエロ・サンツィオ『無口な女(ラ・ムータ)』(1505-1507年、マルケ州国立美術館蔵)

 ラファエロの人物画のなかには、お世辞にも優雅とはいいがたい人も存在する。その代表ともいえるのが、『無口な女(ラ・ムータ)』であろう。

 この絵のモデルについては詳らかでないが、位の高い人物というよりも、商人のおかみさん、といったあたりがぴったりくる。着ているものがどことなく地味で、陰気くさく見えるからだ。けれども、体の前で組み合わされた両手の指には3つもの指輪をはめているし、おまけに彼女の左手がつかんでいるものは、お金が入った袋のようにも見える。

 そのツンと澄ました顔つきは、いかにも無口というか、いっそ無愛想といってしまいたくなるほどだ。それも、性格がおとなしいから口数が少ないのではなく、声を出すとそれだけ損をする、と思い込んでいるようなふしがある。

 彼女のポーズは、明らかにダ・ヴィンチの『モナ・リザ』に酷似している。ただ、『モナ・リザ』が静かな微笑みを浮かべているのに比べると、こちらの女はあまりにも、取り付く島もないといった雰囲気だ。それでも名画とされているのは、細部の描写があまりにも真に迫っているからだろうか。十字のついたネックレスが鎖骨のあたりに微妙な影を宿しているところなど、見事というほかない。

 『モナ・リザ』がどことなく現実を超越したような不可解さを感じさせるとすれば ― だからこそ皆がこぞって“謎の微笑”などというのだろうが ― 『無口な女』は、現実の女性が眼の前にいるように錯覚させる。たとえ万人を魅了するような笑顔でなくとも、対象を迫真的に描ききるのが画家に要求された技術であり、その点ではラファエロの実力はかなりのものであったはずだ。


参考画像:ラファエロ・サンツィオ『マッダレーナ・ドーニの肖像』(1506年頃、パラティーナ美術館蔵)

 なお、ラファエロは『マッダレーナ・ドーニの肖像』でも『モナ・リザ』のポーズを模倣している。いや、ポーズだけではなく髪型も『モナ・リザ』を意識していると思われるし、背後に風景が描かれている点も共通している。

 けれどもこのマッダレーナたる女は、『無口な女』以上に不機嫌そうで、ムスッとしている。まさか20代前半の若造が描いた肖像画が、500年以上経っても多くの人々に鑑賞されるようなことになろうとは夢にも思わなかったにちがいない。

                    ***


ラファエロ・サンツィオ『エリザベッタ・ゴンザーガの肖像』(1504年頃、ウフィツィ美術館蔵)

 『エリザベッタ・ゴンザーガの肖像』も、ひどい顔に描かれている。いや、これは、わざとかもしれない。

 何しろ、着ているものが変わっている。彼女の額を飾っているのは、サソリのようである。肩にかかった髪は、ちょろちょろと波打って描かれているが、あまりにも不自然だ。全体的に、この肖像画には過剰な“演出”が透けて見えるような気がする。

 それと打って変わって、バックに描かれている風景の何とのびやかなことか。奥行きも自然で、無理がない。手前にぬっと突き出している頭が、邪魔に感じられるぐらいだ。ラフェエロは意外なことに、たくさんの引き出しをもった多芸多才な画家だったようである。

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ルネサンスから現代へ(19)

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優美なるラファエロ その7


ラファエロ・サンツィオ『エゼキエルの幻視』(1510年頃、パラティーナ美術館蔵)

 ラファエロとダ・ヴィンチの類似点について書いたが、やはりもうひとりの偉大なる先輩、ミケランジェロの影響を受けてもいたはずだという気がする。

 そう思ったのは、『エゼキエルの幻視』を観たときだ。エゼキエルというのは預言者の名らしいが、詳しいことは知らない。そこに描かれている情景もかなり複雑で、キリスト教の知識のないものにはさっぱり見当もつかないのだが、調べてみると4人の福音書記者の象徴である人・鷲・獅子・牛に導かれて神がその姿をあらわしたところであるという。

 ところで、「天使は見たことがないから描かない」といったクールベの言葉は正しい。いいかえれば、神とか天使といった実体のないものを描く際には、まず誰かの絵の模倣になってしまうことが多いということである。そこでラファエロが参考にしたのが、やはりミケランジェロが描いた神だったのではないだろうか。

 ただ筋骨隆々とした肉体ばかりがミケランジェロを連想させるだけではない。その立派な髭といい、厳格な表情といい、両手を広げたポーズといい、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれた神の姿とよく似ている。


参考画像:ミケランジェロ・ブオナローティ『システィーナ礼拝堂天井画』より「太陽と月と植物の創造」(部分、1508-1512年、システィーナ礼拝堂蔵)

 年代を見ると、ラファエロが『エゼキエルの幻視』を描いたのは、まさにミケランジェロがひとりで天井画と格闘していた真っ最中のことのようだ。同じころ、ラファエロはヴァチカン宮殿の内部に壁画を描いており、彼らは非常に近い場所で仕事をしていたのである。制作中のミケランジェロを、8歳年下のラファエロが羨望の眼差しで見つめるという瞬間があったかもしれない。

                    ***


フェデリコ・ズッカリ(ラファエロ作品に基づく)『牢獄から解放される聖ペテロ』(1563-1566年頃、パラティーナ美術館寄託)

 ラファエロの絵をもとにしてズッカリという人物が描いた『牢獄から解放される聖ペテロ』は、ラファエロが斬新な構図を駆使する画家でもあったことを示唆してくれるだろう。なおラファエロの原画は、ミケランジェロの大天井画と同じころに制作が進められた、例のヴァチカン宮殿を飾る壁画のひとつである。

 何といっても眼を惹くのは、画面のほぼ全体を覆う黒いグリッドだ。これはもちろん牢獄の鉄格子であり、手前では兵卒が居眠りをしているが、その隙を突いて光り輝く天使がペテロを救うためにあらわれるという場面だろう。

 ズッカリによるタブローではなかなか想像できないが、ラファエロはあたかも部屋の一隅に牢獄が設えられていると錯覚してしまいそうな位置にこの絵を描いている。建築と絵画を密着させた、一種のトリックアートでもある。単なる“聖母子の画家”では収まりきらないラファエロのスケールの大きさは、日本の美術館では残念ながら体験できないようだった。

つづく
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ルネサンスから現代へ(20)

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優美なるラファエロ その8


マルカントニオ・ライモンディ『フランソワ1世のための香炉』(1518年頃、マルチェッリアーナ図書館蔵)

 ルーベンスが大規模な工房を運営していたことは前にも書いたが、ラファエロもまた、巨大な工房の中心にいる存在だったらしい。37歳の若さで没した彼は、どことなく未完成のままに終わった人物のような気がしていたが、家を出るときにはいつも50人の弟子を従えていたともいうから、かなりの社会的成功を収めていたことがわかる。

 もちろん当時の芸術家は、一匹狼としては生きていくことができなかった。いかに注文を得るかが死活問題であったし、大規模な工房を切り回して弟子たちを養っていくためには、経営者の才覚といったものも不可欠だったはずだ。現代でいえば、大企業を維持していくためにさまざまな戦略が必要とされるように ― ビジネスマンでないぼくにはそのへんの具体的な内容はよくわからないが ― 常に権力者との関係を良好に保っておく必要があったにちがいない。

 ライモンディの『フランソワ1世のための香炉』は、そんな芸術家たちの裏事情を推察させるに足る作品だろう。ライモンディとは、ラファエロの原画をもとにして精緻な銅版画を残した人物だが、この香炉のデザインも、もともとはラファエロが手がけたものらしい。この案が具体化して、実際にフランソワ1世の手もとに香炉が届けられたかどうかは知らないが、当時のイタリアの巨匠たちとこのフランス国王とは、切っても切れない関係にあったようである。

 フランソワ1世は芸術に理解が深く、晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招いて住居を与え、手厚くもてなした。ダ・ヴィンチの没後、画家の手もとに残されていた『モナ・リザ』を買い上げたのも彼であった。よって、イタリア絵画の至宝がフランスの美術館にあるという一種の“ねじれ”が生じることにもなり、それを逆恨みしたひとりのイタリア人が『モナ・リザ』を盗み出す、というミステリー小説さながらの事件も起きている。

 だが、そんなこととは別に、フランスとイタリアという国境を越えた結びつきが当時のルネサンス芸術の繁栄を支え、現代にまで残る多くの傑作を生み出す原動力となった側面もあることだろう。この香炉のデザインの、互いに顔を背けつつ手を握り合っているふたりの女性像は、まさしく両国の関係を暗示しているような気がしてならない。

                    ***


マルカントニオ・ライモンディ『パリスの審判』(1513-1515年、ウフィツィ美術館版画素描室蔵)

 ライモンディというと、最近の美術の本によく載っているのは、やはりラファエロのデッサンをもとに作られた『パリスの審判』という版画である。といっても、この絵が特別に優れているというわけではない。しかも、リンゴを手にしたパリスと3人の美女たちが描かれている左側の部分ではなく、右側の、いったい何者かわからない人物像ばかりがクローズアップされるのである。

 というのも、その部分がマネの有名な『草上の昼食』の構図と酷似しているからだ。というより、マネが意識して自作に取り入れたとみるべきだろう。現代なら一種の盗作疑惑がささやかれてもおかしくないが、この当時は大っぴらにおこなわれていたことらしい。さらにいえば、マネが『パリスの審判』というさほど有名でない版画の、しかも脇役たちのポーズに着目するとは、なかなか眼のつけどころが鋭い。


(拡大図)


参考画像:エドゥアール・マネ『草上の昼食』(部分、1862-1863年、オルセー美術館蔵)

 いや、実をいえばマネは、「これなら誰にも気づかれないだろう」と思っていたのかもしれない。『モナ・リザ』のポーズを堂々と自作の肖像画に応用したラファエロみたいに、マネがルネサンスの画家たちをリスペクトしていたとは思えないからだ。ラファエロとマネとでは、あまりに時代がちがいすぎていた。

 さらに、サロンの審査員の眼がいかに節穴であるかということを、過去の絵からの引用をひそませることで試そうとした可能性もなくはない。マネはなかなかの確信犯だったようである。

 ついでにいえば、ライモンディの絵は版画であるから、ラファエロの原画は左右が反対であった可能性が高い。もしマネがそちらのほうを見ていたら、今とは左右逆の『草上の昼食』ができていたかもしれない。ちょうど、ぼくが「京都市美術館の名品たち(7)」に載せた架空の画像のように。

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ルネサンスから現代へ(21)

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優美なるラファエロ その9


ラファエロ・サンツィオ『聖家族と仔羊』(1507年、プラド美術館蔵)

 この稿の締めくくりに、やはりラファエロの代名詞である聖母子を改めて取り上げることにしよう。いや、忘れられがちな聖ヨセフもそこに加えてみようか。

 聖母マリアが純潔なままでイエスを身ごもってからというもの、ヨセフはいわば無用の存在となったはずだ。何せ、イエスがこの世に生を受けるために、ヨセフは何ひとつ貢献しているとはいえないのだから。夫婦とその子供という家族構成のなかで、本来なら大黒柱として中心に聳えるべき父の姿が、聖家族のなかでは脇に追いやられているのには、そういった事情があるはずである。

 だが、『聖家族と仔羊』のなかでもっとも目立つように描かれているのは、意外なことに、そのヨセフだ。頭もいちばん高い位置にあり、わが妻とその子供を見下ろす体勢をとっている。しかし、マリアとイエスのあいだにはすでに強固な関係性ができあがっていて、ヨセフはそこに割って入ることができないようなもどかしさも感じられる。彼は、いわば傍観者としての立場に甘んじているのであろうか。

 聖書を詳しく読み解いていけば、ヨセフに課された役割というのも明らかになるのかもしれないが、如何せんこちらは非キリスト者なので、これらの絵画からの印象を率直に受け取る以外にない。

 ラファエロは美男子ゆえに、数多くの女性に愛されたようだが、結婚することなく世を去った(ちなみに、ルネサンスの三大巨匠はいずれも多くの弟子に取り巻かれていたが、私生活では独身のままだった)。つまり家庭というものが、縁遠い存在だったのだ。この聖家族図にみられる一種ギクシャクした感じは、描いている張本人が家族に恵まれなかったことの反映であるようにも思う。

                    ***


ジュリオ・ロマーノに帰属『聖家族』(1512年頃、パラティーナ美術館蔵)

 ジュリオ・ロマーノという人物は、ラファエロの弟子であった。ただ、この絵は彼に帰属するという位置づけであって、彼の真作かどうかは判然としない。

 しかし、そこに描かれている聖母が、ラファエロの影響を受けていることはたしかであろう。率直にいってしまえば、『大公の聖母』とよく似ているのだ。例の、少し眠そうな、半眼の顔つき。若くてチャーミングなだけではなく、慈愛と不安の入り混じった表情・・・。幼子イエスの無邪気な笑顔と対比するとき、その複雑な心の内はいっそうはっきりする。

 だが、もっとも複雑なのは、それをそっと背後から眺める、なかば陰に沈んだヨセフであろう。いや、彼は自分の妻のほうすら見ておらず、控えめに視線を落としている。もしルネサンスという時代が、人間を人間らしく描き得る時代だとしたら、この添え物的なヨセフの扱いは、まだまだ充分とはいえない。

 ただ、ラファエロとその弟子たちが、大らかに女性美を謳い上げたことは明らかである。その点こそが、ダ・ヴィンチやミケランジェロとの最大のちがいなのだ。そして、非キリスト者のわれわれがラファエロの絵の前で至福の時間を過ごすことができるのも、そこに美しい女性が、優美な姿で描かれているからにほかなるまい。

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京の“真夏の夜の夢”(1)

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 今年は、真夏の祇園祭になった。

 京都にとって、山鉾巡行は、本格的な夏の訪れを告げる行事でもあったはずだ。けれども今年は7月8日に、はやばやと梅雨が明けてしまった。市内のあちこちに山や鉾がその壮麗な姿をあらわしはじめるころには、すっかり油照りの夏がやって来ていたのではないだろうか。

 しかし、ぼくは京都から引っ越して数年経つので、ふと気づいたら祇園祭のシーズンが到来していることを知ったぐらいだ。普段から乗っているJRの路線は、京都まではのびていないので、その方面の広告は驚くほど少ない。駅に行くと、大河ドラマと関連したツアーのチラシが控えめに置かれている程度である。

 だが、祭がはじまっていると知ってしまった以上、じっとしてはいられない。けれどもよく考えてみると、今年は宵山の最初の二日が連休にかかるので、例年より人出が多いことも予想される。あれこれ考えたすえに、短時間でも気分だけは味わいたいと、宵々山の夜に出かけた。

 たしかに混雑してはいたが、予想していたほどもみくちゃにはされなかった。翌日からは平日なので、今夜遅くまで祭に浮かれていても支障のない人は、さほど多くないはずなのだ。じゃあそういうお前はどうなんだ、といわれそうだが、最近は昼から夜に掛けての勤務が多くなっているので、多少の夜更かしは許されるのである。

                    ***



 祇園祭のことは何度も書いてきたので、よく知り尽くしているようだが、一年も経つときれいさっぱり忘れてしまう。夜8時過ぎの烏丸駅に降り立ったとき、長らくぼくの体を訪れることのなかった律動がよみがえってくるような気がした。それはコンチキチンの祇園囃子のリズムであり、スピーカーからではなく地面から湧いてくるようなノイズである。京都が並の都会ではないことを、いやというほど思い知らされる。

 有名な鉾には観光客が群がり、人の渦ができる。危険なので立ち止まらないでください、などと連呼する警察官がたくさんいる。なので、なるべく大通りから外れたほうへと足を進めた。端っこまで来ると、本当にこれが祇園祭か? と思うぐらい人はまばらだ。三大祭などといわれ、人間の大きさをはるかに凌駕する鉾を派手に引き回すこの祭も、もともとは等身大の、庶民のささやかな祈りがこもったものなのである。

 浴衣姿の子供たちが、「厄除けのお守りはこれより出ます」などと愛らしい声を揃えて唄う。残念ながらぼくはお守りも粽も買ったことがなく、ろうそく一本献じたこともないが、一般人は立ち入ることの許されない山鉾の「埒(らち)」のなかに座っている彼らの眼には、夏になると京都に押し寄せる観光客はどのように映っているのだろう、とふと思った。

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京の“真夏の夜の夢”(2)

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 ところで、毎年のように祇園祭に来ていると、ある変化に気がつく。もちろん祭そのものは時代を超えて受け継がれてきているものであろうし、山や鉾の準備をする人たちも、前の年と同じようにやっているだけかもしれない。ただ、それを見物するお客たちの様子がちがうのである。

 京都は普段から着物の似合う街だから、若い人が和服姿で歩いていても何の違和感もない。何年か前、宵山に出かける前に京都の展覧会に立ち寄ったことがあったが、いかにも今から祇園祭に行くといった風情で着物を着こなした人が何人も、ごく日常的な雰囲気で美術鑑賞をしているのに感激した。いつもの暮らしと、晴れやかな祭と、ちょっと特別な環境である美術館とが、いかなる段差もなく、同じ地平でつながっているような気がしたのだ。こういった“精神のバリアフリー”は、残念ながら大阪にはないように思う。

 逆にいえば、祇園祭で着物や浴衣を着ている人のなかにも、“本物”にまじって、明らかな“偽物”がいるのが見分けられるようになってくる。いや、偽物呼ばわりするのはちょっとかわいそうかもしれないが、鮮やかな浴衣姿の上にキャバクラのホステスと見紛うばかりの複雑に盛り上げた髪をのせている女が今年は目立った。まあ、こんなものは一過性の流行であって、平安時代からの伝統をもつ祇園祭の前ではつまらない変化かもしれないけれど。

                    ***



 だが、祇園祭が古い日本の精神性ばかりを忠実に残しているわけでもない。まえにも書いたことがあるかもしれないが、山や鉾を飾る懸装品(けそうひん)には中国風のものがあったり、西洋からもたらされたものをそのまま使ったものがあったりする。さらに近現代の画家や工芸家による新しい装飾も加わって、長いスパンで見れば年々変化しつづけているはずである。

 おそらくそれは、戦後に京都の街を一変させた都市の近代化に比べれば、もどかしいほど遅々とした動きであろう。異常ともいえるほどの近代化の速度が、少なくともそこに暮らす人々の歩調とだんだんズレてきてしまっていることは、最近になってあちこちにひずみが生じてきていることからもわかる。

 京都のような歴史ある街は、そういった諸相の断面が、覆いようもなく露出してしまうのである。たとえば鉾の上にのって囃子を奏でている純日本的な青年たちと、それを下から見上げている現代風の観光客とのあいだには、無限の断絶が横たわっているようにぼくには見える。ただ、それをもすっかり巻き込んでひとつの大きなカオスとなしてしまうところが、祇園祭が長らくつづけられてきた理由でもあるのだろうか。

 なお、「休み山」のひとつだった大船鉾が、長い休みを切り上げて、来年から巡行に復帰すると報じられた。去年、宝物を収めた唐櫃だけの仮復帰を遂げ、今年も同じ状態での巡行をしていたようだが、次回からいよいよ、巨大な船のかたちの鉾がお目見えするのだ。

 年表を見ると、この鉾は最初に応仁の乱で焼け、再建後には天明の大火で焼け、さらには蛤御門の変でも焼けるという憂き目に遭っている。それが最近になって復興作業が順調に進み、現存する山鉾のどれよりも重たいといわれるほどの偉容をあらわしつつあるのだという。なお、制作途中の鉾の実物は京都市内の家電量販店で展示されているようだが、ぼくはそれは見ていない。来年のお楽しみにするのもいいだろう。

 今では一日でまとめられている山鉾巡行を、二回にわけておこなうという話もある。つまり時代と逆行して、以前の祇園祭の姿がだんだんよみがえってこようとしているのである。もし実現すれば、ぼくがこの祭にかようようになってからはじめての大きな区切りを迎える。いったいどうなることか、一年後が今から待ち遠しい。

(了)

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ルネサンスから現代へ(22)

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未完の画家、牧野邦夫 その1


〔練馬区立美術館の外観〕

 ここで、時代は一気にルネサンスから20世紀の日本へと飛ぶ。

 次に観たのは、牧野邦夫の回顧展だった。だが、ぼくは最近までこの画家の絵を観たことも、名前を聞いたことすらもなかった。はじめてその存在を認識したのは、テレビ「美の巨人たち」で取り上げられたときである。

 もちろん展覧会に合わせて企画された番組だろうが、そこで紹介された作品の数々は、これまで知っていたどの画家のものとも異なっていた。ひとことでいうのは難しいが、テレビの画面を通してでも、油絵の具という“バタくさい”材料を駆使して比類ない世界を築き上げようとした男の苦心のさまと、作品に寄せる絶対的な自信とが伝わってきたような気がした。

 その番組が放映されたのが、4月27日のこと。そして展覧会に足を運ぶことになったのが、5月26日である。画家の存在をはじめて知ってから、その画業を眼にするまで、たったの一か月しかない。この準備期間の短さが吉と出るか凶と出るか、内心びくびくしながら練馬区立美術館に向かった。

                    ***


〔「牧野邦夫―写実の精髄―展」のチケット〕

 ここに来るのは、もちろんはじめてだ。練馬と聞いても、反射的に浮かぶのは、大根ぐらい(今ではほとんど生産されていないらしいが)。上野から池袋まで出て西武池袋線に乗り換え、中村橋という駅で降りた先は、どこにでもある郊外の街並のように見えた。昼下がりの日光をもろに浴びながら、美術館へと向かう。

 建物は一見すると大変地味だ。派手な看板などもほとんどなく、本当にここで展覧会がおこなわれているのか心配になるほどだったが、いざ玄関をくぐってみると、やはりテレビの影響力か、想像していた以上に人が来ていた。そういった宣伝など何もなしに、いきなり牧野邦夫展をやりますといったところで、いったいどれほどの来館者があるのか覚束ないというのが本当のところだろう。それほど、この画家の知名度は低いといわざるを得ない。

 だが、単にテレビで流れたというだけではなく、番組を通じて「是非本物を観てみたい」と思った人が多いからこそ、賑わっているのであろう。美術館のロビーにはなぜかグランドピアノが置かれ、一部が喫茶コーナーとなっている。外は少し暑いせいもあってか、なかなかの盛況だ。

 申し訳程度に少数のコインロッカーが置かれていたが、すべて使われてしまっていた。ぼくはロッカーのあるところでは必ず荷物を預けることにしているのだが、これでは仕方がない。東京に来る少し前に梅田で買ったばかりの、大判の図録なども収納できるような頑丈な鞄が肩に食い込む。

 思えばそれが、この日のぼくを襲ったささやかなる悲劇のはじまりであった。

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ルネサンスから現代へ(23)

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未完の画家、牧野邦夫 その2


牧野邦夫『ビー玉の自画像』(1963年)

 今展のポスターになり、画集の表紙を飾った『ビー玉の自画像』は、これぞ牧野邦夫、ともいうべき作品かと思う。彼は1925年の生まれというから当時38歳、働き盛りの年齢である。

 ただ、その顔と向き合ったときに、正直にいって、イヤな気がした。誰であろうと、ぼくは自信に満ち満ちている人を好まない。だが、牧野はいかなる恥じらいもなく堂々と正面を向き、これでどうだ、とばかりに観る者の眼を射抜く。

 暗い背景のなかに黒い服を着てたたずむ彼は、まるで闇のなかからぬっと左手を突き出すようなポーズをとっている。もし鏡を見て描いたのなら、その手は画家にとって命ともいうべき右手であろうか。そして、まるで仏像が印を結ぶような謎めいた手つきをし、親指と人差し指のあいだには、なぜか青いビー玉が挟まれている。

 ぼくは展覧会の図録を買わなかったので、牧野邦夫という人物についてほとんど何の知識もないといっていいが、ほとんど無名に近い画家なのにもかかわらず、38歳の若さにして彼をとらえたこの自信は何だったのか、と思う。それは、おのれの実力に対する揺るぎない信頼であったかもしれないし、画壇という共同体に対する反発であったかもしれない。

                    ***

 牧野邦夫は、レンブラントを心から敬愛していたという。つまり、自分が行き着く先は、レンブラントのような巨匠であるべきだということだろう。たしかに、レンブラントも自画像をたくさん残しているのは周知の事実だ。だが、ここまで真っ正面から威圧的に迫ってくる自画像は、レンブラントにはあまりないように思う。


参考画像:アルブレヒト・デューラー『自画像』(1500年、アルテ・ピナコテーク蔵)

 ぼくが連想したのは、デューラーが28歳のときに描いたとされる自画像である。暗い背景のなかに、顔を挟むようにして文字が描かれているところなど、牧野は明らかにこの絵を意識していたのではないかという気がする。

 そして何よりも、その絶対的な正面性が際立っている。デューラーは自分をキリストになぞらえたといわれるほど、このポーズは当時としても異色であった。たしかにパーマをかけたような長髪と髭のある姿は、威厳に満ちた宗教者のように見えなくもない。

 しかしデューラーの手は、まるで手持ち無沙汰であるかのように、ガウンの毛皮をいじくっている。自分はこんな毛皮でもリアルに描くことができるのだ、という宣言とも受け取れるが、その本当の意味はよくわからない。

 ビー玉をつまむ牧野邦夫の真意も、やっぱりよくわからないとしかいえない。ただ、自信たっぷりなおのれの姿と引き比べて、青く輝くガラス玉はいかにも美しいが、壊れやすいものだ。画家の手が生み出す絵画、それに応じて確立される名声など、実は落とせば割れてしまうほど脆くて不確かなものなのだと、彼はいいたいかのようである。

つづく
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ルネサンスから現代へ(24)

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未完の画家、牧野邦夫 その3


牧野邦夫『雑草と小鳥』(1986年)

 牧野邦夫の絵を語る際に、あけすけなエロティシズムといったものは避けて通れない。

 特に裸婦というのは、マネが巻き込まれた大々的なスキャンダルを思い起こしてみてもわかるとおり、どの国においてもデリケートなモチーフであるはずだ。だが、“女神を描くため”などといった巧妙な抜け穴がしかけられていた西洋絵画に比べて、日本美術ではよりいっそう定着しにくい画題だったのではないだろうか。

 このところ隆盛の兆しがある写実絵画では、裸婦の描かれる機会が際立って増えているように思われる。かの磯江毅においてもそうであった(「写真を超えたリアリズム ― 磯江毅の挑戦 ―」参照。なお、磯江の展覧会は2年前にここ練馬でも開かれている)。それは、絵を描くことに対する意味付けが無用のものとなり、対象をいかに緻密に再現するかという、視覚的な側面へと人々の関心が移っていった証しであろうと思う。

 『雑草と小鳥』も、たしかに写実的に描かれているといえる。後ろ手にリンゴをもった不思議なポーズの裸婦は、まことに肉感的である。わずかに覗く横顔からは、牧野邦夫に負けるとも劣らない強靭な意志が垣間見える。

 モデルは、牧野の妻その人であるという。これだけ写実的な絵なのだから、観る人が観れば、あああの人か、と気がつくであろう。だが、彼女は肖像画として描かれているわけではなく、われわれに背中を向けて、よく熟したリンゴを腰のあたりに持っている。この意味ありげなポーズは、どうしても禁断の木の実を食べた旧約聖書のイブを思い出させるのである。

                    ***

 牧野には、芥川龍之介の小説に基づいた『南京のキリスト』という絵もあり、あるいは黙示録を思わせるような混沌たる構成の作品もある。彼がキリスト教といったものについて、どれだけの親近感をもっていたのかは未知数だ。だが、少なくとも幾ばくかの知識があったのは間違いないところだろう。その日本人離れした思想は、彼の絵画世界を単なる写実にとどめてはいない。

 一方で、宗教的な敬虔さのような、高尚なものとも彼は無縁である。その絵は妙にドロドロとして、脂ぎった感じがする。日本人が西洋の油彩を受け入れるときには、洋食を日本の食卓にのせるときのようにさまざまな変容を遂げたはずだが、牧野邦夫ほど胃にもたれるように仕上げられた例をぼくは知らない。少なくとも、現代の写実絵画には存在しないだろう。

 絵のタイトルは、中央に堂々と裸婦が描かれているにもかかわらず、『雑草と小鳥』となっている。その雑草は、花の咲くべきところに人の顔が出現しているという、ルドンを思い出させるような少し恐ろしい姿だ。これは、イブに似た登場人物とは相反するところの、アニミズムの象徴のようにもぼくは見える。

 とにかく、理屈では説明できない複合的な世界観が描かれているとしかいいようがないが、牧野の迫真の描写力によって、観る者はおのずと彼の絵のなかに入り込み、いつの間にか手のひらで転がされているのに気がつく。裸婦からこっそり差し出された瑞々しい果実を、そっと齧ってみたくなるような欲求にも駆られるのである。

つづく
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ルネサンスから現代へ(25)

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未完の画家、牧野邦夫 その4


牧野邦夫『かけをする人達』(1976年)

 『かけをする人達』は、何とも奇妙な絵だ。よくよく眺めてみても、何が描かれているのか、すぐには飲み込めない。登場人物の衣装からしても、これがいつの時代をあらわすのか理解しがたいが、画面の左下には、今や懐かしくなった岩倉具視や伊藤博文の紙幣が置かれている。ということは、紛れもなく画家が生きていた当時の現代であろう。

 中央に描かれている魔術師のような帽子をかぶった男は、牧野本人か。左側で花籠を肩に負っているのは、前回後ろ姿を紹介した夫人の、こちらは正面の姿だと思われる。右側の髪の長い女性は誰かわからないが、おそらく特定のモデルがいそうな肉体的特徴を備えている。とりわけその指の繊細さは、思わず見とれてしまう。

 ほかにも、得体の知れない手があちこちからお化けのように突き出しているのだが、『ビー玉の自画像』といい、『雑草と小鳥』といい、牧野の絵では人物の手のかたちが眼を惹く。『かけをする人達』では、それらの指の過剰なまでの動きが、衣服の襞や花々、カードのしなり具合にまでのりうつり、全体にバロック的なうねりのようなものを醸し出しているように思う。

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参考画像:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『いかさま師』(1635-1638年頃、ルーヴル美術館蔵)

 賭博とか、それに絡んだ不正といった主題は、西洋絵画にはいくつかある。なかでもジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『いかさま師』は、よく知られた一枚であろう。

 人物たちの不自然な眼つき、怪しげな手の動きは、まるでその場を凍りつかせるような緊張感にみちているが、同時に人間どもの浅はかさといったものも感じさせるのではなかろうか。牧野が描いた三人組も、まさにそうだ。犬の背後に描かれた背後霊のような顔が、ことの真実を知って驚きの表情を浮かべている。

 牧野邦夫は、異常なまでの細部へのこだわりを積み重ねて、濃密な絵画世界を作り上げていった。仮装のようにさえ見える衣装は、画家の私生活からはおよそ遠い存在だったにちがいないが、奔放な想像力と、西洋の古典絵画への憧憬が、彼の創作意欲を支えたのだ(もちろん、奥さんをはじめとした周囲の理解もあったのだろうけれど)。

 そして、そうやって築かれた世界は、まるで日本人のカテゴリーを踏み越えてしまったような異質なものとなった。もちろん、それが観る者にとって刺激になるのもたしかだが、場合によっては、鑑賞者の情緒をひどく揺さぶることにもなる。

 この日、ぼくはささやかな悲劇に襲われたと書いたが、もしかすると牧野の絵に“あてられた”のかもしれない。前夜からのバスでの移動と、朝いちばんからたてつづけに展覧会を観るという強行軍に疲れたのも手伝って、絵を観ている途中で気分がわるくなってしまい、ベンチで少し休まざるを得なくなった。展示されているすべての作品を一応は観たのだが、今ではほとんど印象に残っていないものも多い。めったに観られない画家の回顧展なのに惜しいことをしてしまったと、悔やまれる。

 しかし、だからといって誰に文句がいえるというのであろう。牧野邦夫は、ぼくよりももっと辛いたたかいを、生涯にわたってつづけたにちがいないのだ。彼が望んでいたように、ついにレンブラントになることはできなかったかもしれないけれども。

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ルネサンスから現代へ(26)

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未完の画家、牧野邦夫 その5


牧野邦夫『未完成の塔』(1975年-)

 ぼくが牧野邦夫という画家の名前と同時に知ったのは、『未完成の塔』という摩訶不思議な絵の存在だった。前にも書いたように、テレビ番組で紹介されていたからである。

 ブリューゲルの『バベルの塔』を想起させる細かい人物描写にももちろん興味を惹かれたが、塔の上層部分がほとんど描かれていないことと、それを飛び越してキャンバスをはみ出した頂点部分に絵の具が盛り上げられていることに驚かされた。そして、その絵の実物が今回の展覧会の会場に入っていきなり眼に飛び込んできたことにも、少なからず動揺した。

 ぼくの主観でいえば、『未完成の塔』を牧野の代表作と見なすにはやはり抵抗がある。これは何しろ“未完成”であるのだし、画面の半分程度はただアタリがつけてあるだけで、極めて完成度の高い彼の他の作品と比べるとどうしても見劣りがするからだ。いってみれば、必要以上に余白が多すぎるのである。

 だがその一方で、この絵は牧野がいかなる人生設計を考えていたかの参考にもなろう。芸術家といった不安定な職業を選んでおきながら、どんな人生を送ることができるかなど想定できないはずだが、10年ごとに塔の一層ずつを描き上げて90歳で完成させるという壮大な構想を立てた。それが仕上がるころには、レンブラントと肩を並べる巨匠になっていなければならないというわけだ。

 けれども、牧野は61歳という年齢で没してしまう。よって、この塔は未完のまま建ちつづけることになった。

                    ***

 ところがぼくには、牧野が90歳まで生きて大画家の仲間入りをしようなどと本気で考えていたとはどうしても思えない。

 キャンバスよりも少しはみ出した地点にゴールを設定したというその段階で、この絵は“永遠に額縁に収まることのない絵画”たることを運命づけられていた。つまり、展覧会に作品として出品されることを最初から意図してはいなかったのだ。ただ、目標はあくまでも高く、それに向かってたゆまず努力していく。道なかばで倒れることが芸術家の宿命であることを、牧野はよく知っていたにちがいない。

 この異色の絵がテレビで取り上げられ、まるで名刺代わりのように展覧会の冒頭に置かれていたのは、牧野本人にしてみれば少しくすぐったい思いのすることだったかもしれない。けれども、これほどひとりの力で“金字塔”を打ち立てることの困難さを感じさせる絵もないのだった。

 もしまた機会があれば、体調を充分に整えたうえで、覚悟して牧野絵画に向き合ってみたい。ぼくにとって、牧野邦夫という存在そのものがまだ未完成なのだと、そう考えることにしている。

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ルネサンスから現代へ(27)

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スペインの光のもとで その1


〔Bunkamuraの地階にザ・ミュージアムはある〕

 今回の東京行きの最後は、最近よく訪れているBunkamuraにまた足を運んだ。けれども、騒音と人いきれとが渦巻くカオスのようなこの場所は、どうしても好きになれない。渋谷駅からミュージアムまで歩くあいだの数分間は、ぼくにとって我慢のときだ。

 今回の目的は、アントニオ・ロペスという、現代スペインの画家の回顧展を観ることだった。ただ、牧野邦夫と同じように、この人のこともまったく知らなかったのである(スペインには同名の著名人が複数いるようだが、そのいずれともぼくは縁がなかった)。

 しかし、前回ここで開かれていたルーベンスの展覧会を観たおり、次回展の告知としてロペス展のポスターが貼られていて、そこに描かれていたモノクロの少女の純粋な視線が、ぼくの心臓を射抜いてしまったのだ。いわば、一眼惚れというのに近い出会いだった。

 ただ、その少女は遠くスペインに ― いや渋谷にしばらく滞在するだけで、関西にやって来ることはないらしかった。この機会を逃すと二度と会えないかもしれないと思うと、何とも名残惜しい気がする。そこで、ラファエロとダ・ヴィンチの展覧会を同じ日のスケジュールに組み込んで、そこに遅ればせながら牧野邦夫も組み込んで、一日をかけた贅沢な美術のフルコース「ルネサンスから現代へ」を敢行することにしたのである。

                    ***


〔「アントニオ・ロペス展」のチケット〕

 もちろん少女の絵を観るためだけにロペス展に行きたかったわけではない。彼もまた、現代のリアリズムの画家を代表する存在だという。

 牧野の展覧会でも“写実”ということが謳われていたが、実際はそれのみにとどまらず、さまざまな幻想性とか、強烈なまでのメッセージ性が観る者の脳髄を刺激した(それで体調を崩したのはぼくだけであったかもしれないけれど)。

 しかしロペスの写実は、何というか、もっと人に優しい、体温にも似たぬくもりが感じられるような気がしたのだ。リアリズム絵画は、ともすると精密に焦点を合わせた顕微鏡を長時間のぞいているような疲労を感じさせるものだが、ロペスの絵には、細部への異常なこだわりを超越した静かな時間が流れているのではないか。よく知りもしない画家であるくせに、そんなことを直感的に感じたのである。

 練馬区で牧野邦夫を観て、一度はダウンしそうになりながらすぐ都心に引き返し、今は渋谷の雑踏に飲み込まれそうになっているぼく。こういうときにこそ、あの少女像の無垢な瞳が救い出してくれるのではなかろうか?

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ルネサンスから現代へ(28)

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スペインの光のもとで その2


アントニオ・ロペス『パチンコを撃つ少年』(1953年、カルメン・ロペス蔵)

 アントニオ・ロペスは1936年の生まれだから、『パチンコを撃つ少年』は10代後半の作品である。この絵からは、まだリアリズムの片鱗はうかがえない。

 年若い人にとって、現実と非現実との境界線は曖昧なものなのだろう。幼児の動きなどをなにげなく見ていると、穴が開きそうになるまでひとつのものを凝視しつづけていることがあるが、それは現実を観察しているだけではなく、心のなかは自由な空想の世界に羽ばたいているはずだ。

 そんな子供が大きくなって、より広い空間を求めはじめるのは、ある意味で当然のなりゆきだと思える。この絵の半分以上に空が描き込まれており、しかも天に向かってパチンコを撃とうとしている少年のポーズは、いってみれば退屈な日常にいやけがさして新たな天地を求めはじめたロペス自身の肖像かもしれない。

 まるで白昼夢のようなとりとめのなさと、切り抜いて貼りつけたかのような人物の孤立感は、どことなくバルテュスの世界を彷彿とさせる。はじいたパチンコの球がどこに命中するか、ロペス自身にもまだわかってはいなかった。

                    ***


アントニオ・ロペス『飛行機を見上げる女』(1953-1954年、個人蔵)

 前作の少しあとに描かれた『飛行機を見上げる女』では、明らかな変化がみられる。絵のなかから空が消え、ほぼ人物のクローズアップとなり、画面がせせこましく、雑然としているのだ。

 この女は、手にしていたものを取り落とすほど、飛行機の出現に驚いている。戦争を思い出したからだ、などともいわれ、背景には実際に黒い戦闘機のようなものが描かれてはいるのだが、ぼくはこの絵からそういった歴史的事実を読み取る必然性をあまり感じない。ロペスの興味は、あんぐりと口を開け、真ん丸な眼で空を見上げている女そのものにあるような気がするからである。

 絵のマチエールは全体に粗く、赤茶けた壁画のような具合で、とてもではないがリアリズムからは程遠い。むしろ、スペインという特殊な国の風土性が濃厚に感じられる。太陽が輝き、空気は乾き、濃厚な影が地面を走る、あの灼熱のスペインだ。

 だが、画家としての経験を重ねるにつれて、彼はスペインのステレオタイプなイメージを抜け出し、個人的な体験を描くようになっていく。もちろんそれはスペイン人が描いたスペインの姿であり、ある意味でもっともスペイン的なものであるはずなのだが、われわれ日本人の心にも真っ直ぐに響く普遍性を徐々に獲得していくように思えるのである。

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ルネサンスから現代へ(29)

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スペインの光のもとで その3


アントニオ・ロペス『死んだ犬』(1963年)

 何ともおぞましい、一枚の絵があった。『死んだ犬』である。かつて、西洋絵画の歴史のうえでこれほど大きく描かれたことはなかったモチーフだろう。

 画面の大部分は焦げたように黒々とした犬の死骸で占められているわけだが、まるで化石のようにも見える。あるいは、古代都市ポンペイを襲った溶岩に巻き込まれた人はかくのごとくだったか、という悲惨な想像もぼくをさいなむ。

 しかし不思議なことに、犬の横たわっている地面の向こうでは人が歩いており、煙突からはもくもくと煙が吐き出されているではないか。つまり、背後では普段のなにげない日常生活が営まれているわけだ。路上で犬が死んでいるということは、それほど珍しい事件ではないからだろう。ただ、そこに眼をつけて描いたところに、ロペスの特異さがある(なおこれは、彼が実際に目撃した情景らしい)。

 絵の具は画面から盛り上がっていて、ほとんど半立体ともいえる。ロペスは画家としての活動と並行して彫刻の制作もおこなっており、あらゆる角度からリアリズムを追求できるのが彫刻だ、と述べているという。彼が犬の死骸から受けたある種の衝撃は、物質感をともなったしこりとなっていつまでも心に残ったのだろう。ぼくたち鑑賞者は、陳列された絵のなかに不意に死んだ犬の姿があらわれることで、そのときのロペスの精神状態をも追体験させられるかのようである。

                    ***


アントニオ・ロペス『フランシスコ・カレテロ』(1961-1987年、長崎県美術館蔵)

 追体験を、ロペスが自作のなかでおこなっているのが、『フランシスコ・カレテロ』だといってもいいであろう。

 この人物もある意味で化石のようだ、などというと失礼かもしれないが、あながち間違いでもない。カレテロという人物はロペスの親戚筋で、画家でもあったという。ロペスはカレテロの肖像画を1961年に描きはじめるが、本人は翌年に83歳で亡くなってしまった。その時点で、絵はまだ頭の部分しか仕上がっていなかった。

 だがロペスはそこで制作を中断しようとはせず、他のモデルを使って胴体部分を描き加え、実に27年もかかって完成させたのがこの絵である。彼がそこまでこだわったのは、もちろんこのカレテロという人物に強い思い入れがあったからだろうが、記憶のなかのカレテロを幾度もたどり直し、際限なく修正を加えたうえでようやく手放すに至った過程からは、リアリズムの意味をおのれに問いかけながら筆を進めるストイックなロペスの創作態度が透けて見える。

 ぼくの率直な感想をいうと、この絵のカレテロはまるで生きながら死んでいるかのごとき、異形の姿として映った。いいかえれば、死後の世界からひょっこり戻ってきて「やあ待たせたな」と声をかけているような、何とも不気味な違和感を覚えさせられたのだ。

 リアリズム絵画は、ときとして観る人を震えさせもするのである。最近の日本の写実表現は、あまりにも美しいものに偏りすぎる。人間たるもの、そんな美しいものばかり見て生活しているわけでもあるまいに。

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ルネサンスから現代へ(30)

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スペインの光のもとで その4


アントニオ・ロペス『グラン・ビア』(1974-1981年、個人蔵)

 グラン・ビアというのは、大都会マドリードの目抜き通りらしい。ということは、いつもたくさんの通行人や観光客であふれ返っているはずである。

 だが、この絵には人っ子ひとり描かれていない。日本に中野正貴という写真家がいて、人物が誰ひとり写っていない東京の風景を撮影しているが、それをちょっと思い出させる。

 ある夏の朝、ロペスは偶然にこの情景を眼にして、奇跡のようだと感じた。夜明けの輝きが遠くの建物を明るませはじめる、おそらくはほんの数分間の眺め。そのときの感動を自分だけの体験にとどめておけないのが、画家の業とでもいえようか。彼はその風景を絵画に写し取るために、7年もの時間をかけて描きつづけた。

 もちろん、7年間ずっと描きっぱなしだったわけではない。同じ季節、同じ時刻になると彼はこの場所にあらわれ、交差点の信号機の脇に簡素なイーゼルを立てて、絵を描き足していったという。あくまでも空想ではなく、自分をとりこにした奇跡の瞬間を何度も“追体験”することが、彼の創作の原動力であったのだろう。

 この風変わりな制作態度は、光が移り変わるたびにキャンバスを取っ替え引っ替えして描いたというモネとは正反対である。あらゆる気象条件のもとで展開される風景をすべて自分の絵のなかに取り込もうとした貪欲なモネに比べて、ごく短時間だけ現出する光景を執拗に追いつづけたロペスは、人間離れしたストイックさを感じさせる。ちょうど、ひとりの女性へ寄せる永遠の思いを貫くのにも似て・・・。

                    ***

 もうひとつ、この絵を眺めていて気づいたことがあった。渋谷駅を降り立ってから、今いるBunkamuraへ向かうときのルートと、『グラン・ビア』がどことなく似ているのだ。

 大勢の人が行き交うスクランブル交差点を渡ると、円筒形のかたちをした有名なファッションビルが聳え、その右手を進んでいくと、やがて東急百貨店の建物が見えてくる。『グラン・ビア』の絵のなかでも左側に円形の塔のようなものが建ち、その右側を走る大通りは観る者を吸い込んでしまいそうな奥行きをもっている。

 ただ、残念なことには、渋谷ではこの絵のように誰もいない瞬間というのがほとんどない。人々に侵食されてしまった大都会では、街並の本当の姿はもはや誰にもわからないだろう。

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ルネサンスから現代へ(31)

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スペインの光のもとで その5


アントニオ・ロペス『トーレス・ブランカスからのマドリード』(1974-1982年)

 『トーレス・ブランカスからのマドリード』は、『グラン・ビア』と並行して描かれた風景画である。ただ、こちらのほうが仕上がるまでに一年長くかかっている。

 前作が地面に立った人間の視点で描かれたマドリードだったのに比べて、同じ街を高層建築の上から俯瞰したアングルでとらえた絵である。時間帯は夕暮れ近く、ビルの狭間にはすでに薄闇がただよい出すころだろうか。この絵でも通行人や自動車の姿は大胆に省略されていて、普段のマドリードとは異質の静寂が支配している。

 だが、『グラン・ビア』ではどことなくゴーストタウンのような寂しさを感じさせた無人の都市風景も、こちらは空の明るみのためか、それとも高みから見下ろしているせいか、さほど違和感を覚えない。思えば誰しも、高いところにのぼって下界を見下ろしたことがあるはずである。都市空間を埋め尽くす無数の窓と、そのひとつひとつには数えきれないほどの人々の営みが秘められているのだという認識は、現代人にとって親しいものにちがいない。

                    ***

 けれどもロペスにとって、そんな感慨は何の意味ももたなかったことだろう。彼はこの作品について、マドリードの基本的なものを描いた、と述懐している。いったい何が基本的なものなのか、現地を知らぬぼくにはわかりようがないが、おそらくはベラスケス、ゴヤ以降多くの芸術家たちを惹きつけてきたこの国の光であり、影であり、温度であり、乾いた空気なのではなかろうか。

 それを都会の風景のなかに表現しようとしたのは、逆説的に聞こえるかもしれないが、ロペスが現代人だったからだとしかいえない。ただ、8年間もの画家の営為に辛抱強く付き合ってくれたマドリードは、本当に素晴らしいところだと思う。

 この街に一種の威厳のようなものを付与しているのは、その“変わらなさ”である。日本の都市など、たった数か月のあいだ眼を離した隙に新しい建物が建ち、看板が増え、色彩が塗り替えられ、めまぐるしく変貌してしまうではないか。

 ただ、ロペスがこの作品を仕上げたときからでも、すでに30年余りの歳月が経過している。今のマドリードがどんな姿をしているか、それはわからない。しかし、画家を魅了してやまなかった美しい夕焼けは、今でも変わらずこの都市の空を彩ることがあるだろうと思いたい。

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ルネサンスから現代へ(32)

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スペインの光のもとで その6


アントニオ・ロペス『マリアの肖像』(1972年、マリア・ロペス蔵)

 いよいよ、前回展のときにポスターで見かけたあの少女と対面する。彼女はロペスの娘で、当時9歳だったマリアである。今はどうやら、この絵はモデル本人が所蔵しているらしい。

 彼女の姿は、一見するとまるでセピア色の写真のようだが、実は鉛筆で描かれている。その純粋な瞳、少し緊張した口元、厚手のコートなど、驚くほど本物そっくりだ。とはいっても、ぼくは幼かったマリアその人を知っているわけではない。ただ、たとえば岸田劉生が繰り返し描いた麗子の像に比べると、ずっと人間の血がかよっているように思える。

 けれども、彼女の存在感は、なぜか少し希薄な感じもする。他の油彩画に比べると、ますますそうだ。この作品は、完成まで何年もかけるということをしていない。それはもちろん、9歳の女の子は日々成長し、いつまでも今の姿をとどめているわけではないからである。

 すでに亡くなった人を描いた『フランシスコ・カレテロ』とはちがい、今まさに成長過程にあるモチーフを描きとめるということは、ロペスにとっては新たな挑戦だったかもしれない。そのために、着色という手間をあえて省いたようにも思われるのだが、繊細な少女のもつガラスのような感受性を表現するにはふさわしい方法だったような気もする。

                    ***


アントニオ・ロペス『夕食』(1971-1980年、カルメン・ロペス蔵)

 こちらも、ロペスの家族を描いた一枚だ。右側で黙々と食事をとりつづけているのは彼の妻、そして正面からこちらを見やっているのは、マリアの妹のカルメンである。

 先ほどの『マリアの肖像』と、たしかに顔つきは似ているのだが、不用意に触るとこわれてしまいそうな純粋さよりも、どことなく訳知り顔というか、かすかな老練さが感じられるのは不思議だ。

 この絵にはトレーシングペーパーで何度も描き直された習作があり、かなりの試行錯誤のあとがみてとれる。仕上がった油彩画にも壁が剥落したような痕跡や、位置を修正した経過が如実に残るなど、未完成と思われるような部分もある。ロペスが写実の画家といわれていることを考えると、このへんの非写実的な表現をどうとらえたらいいのか困惑せざるを得ないが、ほとんど思索の形跡のない現代の美しいリアリズム絵画が捨ててしまったアナログの感覚が匂い立つような気がするのもたしかであろう。

 なお、ぼくはこれらのマリアとカルメンの幼き日の肖像を観て、今現在の彼女たちがどんなふうに歳月を重ねているのか無性に知りたいような、また絶対に知りたくはないような、奇妙に分裂した意識が湧いてくるのを抑えがたかった。

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ルネサンスから現代へ(33)

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スペインの光のもとで その7


アントニオ・ロペス『マルメロの木』(1990年)

 今から20年ほど前に、「マルメロの陽光」という映画が公開されたことがあった。ロペスの制作現場に密着したドキュメンタリーである。

 ロペスの絵と出会った人は誰しも、この画家はどうやってこんな絵を描くのだろう、と想像したくなるはずだ。何か人知れぬ魔法のようなものを使って、平面のなかに三次元の世界を現出させているのだろうか、などと・・・。

 だが、彼は魔法使いでもなければ、超人でもない。地道に、ときには愚直なほどにひたすら対象と向き合い、手探りで少しずつ絵の具を塗り重ねていく。これほど世の中のスピードが速くなった現代において、その仕事ぶりはあまりにも遅々としたものに見える。ちょうど、同じスペインのサグラダ・ファミリアがいつまで経っても完成しないように・・・。

                    ***

 先日放送された「日曜美術館」のなかで、「マルメロの陽光」の一部が紹介されていた。それは驚くべき内容だった。

 自宅の庭にあるマルメロの木がたわわに実り、それを描くことにしたロペスは、木を両側から挟むように杭を打ち、糸を張り渡して錘りをぶら下げた。キャンバスにも垂直の線を引き、錘りの線と重なるように描けば、いつも同じ場所から同じ角度で対象を見つめることができるからだ。その厳密な仕事ぶりは、画家というよりも測量技師のようである。

 そして、ときには風に揺れたりしてその姿を変えるはずのマルメロの葉や実のうえにまで、白い絵の具で十字の印をつけた。それらの位置関係を明瞭にするためだ。ところが、時間が経つにつれてマルメロの実は熟し、重くなって下がってくる。葉も徐々にしなってくる。何度も印を付け直して再挑戦するものの、ついにこの絵が完成することはなかった。

 そのとき描かれていたのが、『マルメロの木』である。いわば、この絵はロペスが一本の木を相手に奮闘したことを示す痕跡であって、鑑賞に堪えるものではないかもしれない。植物を正確に測定して描こうとする画家の態度を、徒労のひとことで片付けることもたやすい。

 だが、自由な想像力が立ち入る隙を与えず、職人のように律儀に対象と向き合うロペスには、ものをよく見るよりも前にパチリと写真を撮って満足してしまうわれわれよりも、ずっと多くのものが見えているにちがいない。

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ルネサンスから現代へ(34)

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スペインの光のもとで その8、そして終章


アントニオ・ロペス『バリェーカスの消防署の塔から見たマドリード』(1990-2006年、カハ・マドリード財団蔵)

 この絵は、日本でいうと平成2年から18年にかけて描かれている。ということは、バブルの崩壊から紆余曲折を経て小泉政権の終焉に至るまで、ロペスは飽きることなくひとつの街を描きつづけていたことになる。こう書くと、彼の画業がいかに途方もなく長いスパンで繰り広げられてきたかがわかるだろう。

 夏のあいだ、彼は消防署の高い塔の上にのぼり、マドリードの街を見下ろした。この絵を観ると、実際のスペインを知らないぼくにも、赤茶けて乾いた風土が眼の前に立ちあらわれ、埃っぽい粒子が大気中にただようのが肌に感じられるようだ。

 マドリードという土地はロペスにとって親しい場所であるはずだが、そこに何年もかよいつめて描きたくなるほどに、実際は謎めいた街であったのかもしれない、という気もする。都会というのは、たとえばそこの市長などでも把握しきれないような裏の顔をもっているものだし、前にも書いたが路上を歩いているときと高みから俯瞰したときとでは、まったく異なった様相を見せる。

 その点で、この絵は『トーレス・ブランカスからのマドリード』とよく似た目線で眺めた都市風景だともいえるが、描かれた建物はより細かくなっている。遠近感よりも、平坦な横への広がりのほうが重視され、それを強調するためかキャンバスが左右に継ぎ足されて、当初の倍近い長さにのばされた。ロペスの眼は、ますます高いところへとのぼって、いわゆる“神の視点”に近いものをも獲得し得たのではなかろうか。

 とりわけ印象的なのが、混じりけのない青空だ。かつて若いころのロペスが描いたように、空には鳥の姿もなく、飛行機も飛んでいない。普段、われわれ現代人の慌ただしい暮らしの上には、いつも大いなる空が、何もいわずに茫漠と広がっている。そんな当たり前のことを、ふと思い出させてくれる一枚であった。

                    ***


〔新宿駅西口の夜景〕

 展覧会を観終わったときには、とっくに暗くなっていた。Bunkamuraの地階は吹き抜けになっているせいか、人工の光にすみずみまで照らされることなく、よりいっそう闇が濃い感じがする。

 どうせなら、このままベンチに座ってぼんやりしていたかった。昼下がり、牧野邦夫展の絵にかき回されたぼくの情感の渦は、まるで時間が止まったようなロペスの絵に囲まれたことで、すっかり癒やされていた。

 だが、そうもいっていられない。ここは家から遠く離れた、東京の渋谷なのだ。今からまたあの人ごみのなかを通って新宿へ行き、そこからバスに揺られつづけなければならない。

 かつては、タイトなスケジュールで大阪と東京を行き来する慌ただしさを、一流のビジネスマンのようだな、と思ったこともある(一流だったら夜行バスなどには乗らないだろうけれど)。だが今では、そうやって地上を股にかけて東奔西走することよりも、じっとひとつのことに眼を凝らしつづけることのほうがはるかに難しく、それだけに意味あることのような気がして仕方がないのだった。

(了)


DATA:
 「レオナルド・ダ・ヴィンチ展 天才の肖像」
 2013年4月23日〜6月30日
 東京都美術館

「ラファエロ」
 2013年3月2日〜6月2日
 国立西洋美術館

「牧野邦夫―写実の精髄―展」
 2013年4月14日〜6月2日
 東京都美術館

 「アントニオ・ロペス展」
 2013年4月27日〜6月16日
 Bunkamuraザ・ミュージアム


参考図書:
 「アントニオ・ロペス 創造の軌跡」木下亮 訳(中央公論新社)
 「美術の窓」5月号(生活の友社)

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歌声よいつまでも(1)

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 ぼくが子供のころ、ヘタクソなヴァイオリンを携えて小学生から高校生だけで編成されたジュニア・オーケストラに参加したのには、いくつかの理由がある。

 もちろん、10歳のときに偶然耳にした『第九』をきっかけにクラシック音楽のとりことなったからだが、ぼくの周囲にある音源といえば古いレコードとFM放送ばかりで、ナマの音に触れる機会はほとんどなかった。市立の文化会館に一流の音楽家が来演する機会は年に数回しかなかったし、来たとしても入場料はとても高く、子供の小遣いで聴きに行けるようなシロモノではなかったのだ。

 そこで、福井のアマチュア楽団が定期演奏会を開いたり、市民フェスティバルなどのイベントで演奏したりするのをつまみ食いするような聴き方をせざるを得なかった。そんなとき、あるショッピングセンターの駐車場で開かれた夏祭りか何かのステージにそのジュニア・オーケストラがゲスト出演し、そのころ流行していた映画「E.T.」のテーマ音楽をはじめとしたポピュラーな曲を颯爽と奏でるのを聴いて、是非ともそのメンバーに加わってみたいと思ったのである。

                    ***

 ところで、同じ日のステージに、30人ほどの子供たちからなる合唱団も出演していた。その名前を「福井ソアーベ児童合唱団」といい、当時はまださほど有名ではなかったが、ぼくと同じ学校にかよう双子の少女がそこの団員になっているということを噂に聞いていて、何となく名前だけは認識していた。

 そのとき彼らが何を歌ったのか、そしてどんな歌声だったのかはあまり覚えていないが、おそらく短い曲を何曲か披露したのだろう。初老の男性が指揮をとっていて、曲のあいだにこちらを向いてにこやかに笑い、ぴょこりと頭を下げた姿が印象に残っている。

 ソアーベの合唱は、何の機会にか忘れたが、ちゃんとしたホールでも耳を傾けたような記憶がある。愛らしいベレー帽をかぶり、お揃いの制服に身を包んだ子供たちは、おそらく駐車場のイベントなどには不向きのやや大規模な曲、5つの楽章からなる「チコタン」を歌った。おそらく合唱をやっている人のあいだでは有名な曲だと思うが、ぼくはもちろんそのときはじめて聴いた。

 ひとりの少年の揺れる心が、ときには子供っぽく、ときには強靭な言葉で綴られる。歌詞はすべて関西弁であり、当時のぼくにはよく意味のわからない部分も多かった。だが、子供たちの歌声からは、童謡のような単純なメロディーでは伝えきれない複雑な“等身大の人間”のリアリティーが立ちのぼってきた。この小さな少年少女たちのなかから、こんな豊かな表現が生み出されることに、圧倒される思いだった。

                    ***

 その後、彼らの歌声にふたたび巡り合うことはなく、福井を離れてしまったぼくに、海外公演を成功させたといったニュースが断片的に飛び込んでくるばかりだった。今年になって久々に、あるテレビ番組を通して、ソアーベ児童合唱団の最近の様子を知ることになった。だがその時点ですでに、ソアーベは30年の節目を迎えて解散し、あのぴょこりと頭を下げた指揮者の先生も、もうこの世の人ではなかったのである。

(画像は記事と関係ありません)

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